なぜ家康は本阿弥光悦に京都鷹峯の土地を与えたのか 光悦と家康の関係とは?

本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)は、江戸時代初期に活躍した芸術家である。今の京都北区鷹峯には、当時彼を中心とした一大芸術村があった。そこでは、光悦を慕う多くの芸術家が集い、その後の日本芸術に大きな影響を与えている。しかし光悦の死後わずか60年ほどで鷹峯の芸術村は消滅してしまった。

芸術村は、なぜ作られたのか、そしてなぜそんなに早く無くなってしまったのか。そこには徳川家康の思惑が大きく関わっていた。

マルチアーティスト・本阿弥光悦

本阿弥家は、足利尊氏の時代から刀剣の鑑定や研磨、ぬぐい(浄拭)を家業とした名家だった。光悦の父・本阿弥光二は、本阿弥家の遠縁にあたる武家・片岡家の次男で、7代目本阿弥光心に嫡子ができなかったため、婿養子として本阿弥家に入った。

父・光二は、刀の目利きや細工について、世に並ぶものがいないほどの名人と言われた人で、母の妙秀は男勝りで才気煥発な女性であったそうだが、その反面普段はいたって慈悲深く優しい人だと伝わっている。

英才教育を受ける光悦

刀の鑑定では、刀身だけでなく鞘や鍔などの拵えを見る目も養わなければならない。そのために金工・木工・漆芸・蒔絵・螺鈿・染色など様々な伝統工芸の知識が必要となる。光悦は、本阿弥家の後継ぎとして幼いころから厳しく仕込まれており、それが後年の活躍にも存分に生かされた。

万能の芸術家・光悦

光悦の父・光二が養子に入った後、光心に嫡子が生まれたため、光二は自ら身を引き、別家を興した。本家を継ぐという責務がなくなったことで、気楽になった光悦は、家業以外にもその才能を発揮していく。特に書については、近衛信尹(このえのぶただ)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とともに「寛永の三筆」と呼ばれるほどであった。その他、蒔絵や陶芸、茶の湯などにも非凡な才を見せた。

俵屋宗達の抜擢

40歳を過ぎたころには、厳島神社の「平家納経」の修理に当たり、まだ若く無名に近かった俵屋宗達を指名した。以後の宗達の活躍にも、光悦が少なからず影響している。光悦は、自らが芸術を生み出すだけでなく、コーディネートやプロデュースする才にもたけていたようである。

家康はなぜ光悦に鷹峯の地を拝領したのか

光悦が鷹峯の地を家康から拝領したのは、元和元年(1615)のことである。大坂夏の陣により、豊臣家を滅ぼした家康は、その直後、光悦に土地を与えたことになる。その広さは今の京都御苑の半分ほどになる。本阿弥家とはいえ別家、京に住むひとりの町衆に過ぎない光悦に、なぜ家康は広大な土地を与えたのだろうか。

家康は光悦の人脈を恐れた?

鷹峯を拝領されたときの光悦は58歳。すでに芸術家として京の公家や武家、朝廷とも浅からぬ関わりを持ち、有力町衆、多くの知識人とも幅広い交友があった。光悦はまた、古田織部を師として茶の湯にも通じていた。

古田織部は1万石の大名でありながら茶人としても有名な人物だったが、大坂の陣の際に豊臣家に内通していたという疑いがかけられた。切腹を命じられた織部は、一言の釈明もせずに腹を切っている。織部は千利休を師として仰ぎ、どちらも時の権力者によって腹を切らされた。そんな彼らと同じ匂いを、家康は光悦からもかぎ取っていたのかもしれない。

本阿弥家の家業は刀の鑑定で、日頃から武家との付き合いもある。現在の京都府庁の北側にあった光悦の屋敷は、有力武家と徳川家転覆を企むには、絶好の場所である…と家康が考えたかどうかはわからないが、とにかく家康は徳川家の世を盤石にするため、ほんの少しの不安も取り除きたかったとは考えられないだろうか。

鷹峯を拝領する

光悦の孫・光甫が、書き残した『本阿弥行状記(ほんあみぎょうじょうき)』では、家康が鷹峯を光悦に拝領した様子が記されている。

大坂夏の陣後、家康は京の二条城に戻って戦後処理を行い、一段落がついたころのことである。以下『本阿弥行状記』から意訳。

長らく姿を見ていなかった光悦の消息を、家康は京都所司代・板倉勝重に尋ねた。すると板倉は「光悦は元気にしておりますが、なにぶん変わり者でございますので、近ごろは洛中に住んでいるのに飽き飽きして、田舎に住んでみるのも良いと申しております」と答えた。家康は「近江と丹波を繋ぐ重要な道にあたりながら、辻斬りや追いはぎが出没する危険な場所があったはずだ。光悦にはその土地を与えてやれ」と言った。そこは鷹峯という場所で、東西200間(約360m)、南北7里(約760m)に渡る原野だった
『本阿弥行状記』より

光悦が本当に「洛外に住みたい」と言ったかどうかは定かではないが、とにかく光悦は、京の中心から洛北鷹峯へ移ることになった。

家康の思惑とは?

光悦に鷹峯を与えた家康の意図はどこにあったのだろうか。

ひとつは京への出入り口の1つ・丹波口への道沿いに光悦を住まわせることで地域一帯の安全性を高めようとした。それ以上に光悦の武家・公家・町衆への影響力を恐れ、洛中から追放したかった。そして土地を拝領することで本阿弥家を徳川の家臣として服従させる… この一石三鳥ともいえる名案が、鷹峯拝領の真相ではないだろうか。

ところが、ここに光悦の才覚というもう一つの石が投げ入れられて、大いなる芸術の流れを作り出すことになった。二石四鳥だ。

鷹峯に出現した芸術村

家康の思惑を光悦自身はわかっていたのだろうか。私はおそらくわかっていたと思う。だが、天下の徳川幕府に対し、一介の町衆が抵抗できるわけもない。いや光悦なら家康の意図を分かったうえで、面白がって鷹峯に移ったのかもしれない。

しかし、さすがに光悦の家族だけで鷹峯に住むのは危険すぎる。そこはマルチアーティストであり、プロデューサーであり、コーディネーターでもある光悦だ。

「せっかくだからここで思う存分芸術に没頭してみるか。ついでにみんなも呼んでやろう。そうだ、ここに芸術村を作ろう!」

光悦は、一族や友人、職人たちに鷹峯の土地を分け与えることにした。光悦の人間性と非凡な才能に惹きつけられた人々が次々と鷹峯に移住する。

こうして出来上がった芸術村は、まさに家康が恐れていた光悦の影響力のたまものだ。家康は光悦に鷹峯を拝領した翌年に亡くなっているが、もし光悦の芸術村を目の当たりにしていたら、自分が光悦を警戒したことに間違いはなかったと思っていただろう。

芸術村の功績

鷹峯には、光悦の一族を始め、友人の尾形宗伯(尾形光琳・乾山の祖父)、茶屋四郎次郎(京の豪商)、紙屋宗仁・筆屋妙喜ら名工も移住している。光悦は創作三昧の日々を送り、国宝の白楽茶碗「不二山」、舟橋蒔絵硯箱など多くの作品が生まれている。

光悦に見いだされた俵屋宗達も鷹峯を訪れていた。光悦と宗達、そして尾形光琳・乾山へとつながる琳派の偉大な流れは、ここ鷹峯芸術村という泉から始まったのだと想像すると、なんだかウキウキしてくる。

光悦亡き後の芸術村

光悦は、鷹峯に移住して20年以上の年月にわたり、芸術活動に没頭し続け、寛永14年(1637)2月3日、晩年に居住していた太虚庵で天寿を全うした。享年80歳であった。

光悦が拝領する際に年貢の免除などの特権があった鷹峯には、少しずつほかの地域からの農民が無断で住み始めていた。そして芸術村の中心的存在が消え、農民が増えたため、芸術村という色が少しずつ薄くなる。光悦の孫の光甫が相続するころには、農民同士の居住権争いが頻繁に起こるなどの問題が多発し、延宝7年(1679)には鷹峯の地が幕府へ返上されることが決定してしまった。

さらに天和2年(1682)には本阿弥家の鷹峯への支配権まで召し上げられてしまう。この年の7月には、光甫も亡くなり、鷹峯の芸術村は完全に消失してしまった。

安泰の徳川に怖いものなし

芸術界のカリスマ・光悦が亡くなって60年近い年月が流れ、徳川幕府は5代綱吉の時代となっていた。徳川家の世はすっかりと安定し、今や幕府に牙をむく大名もいない。そんな幕府にとって、光悦のいない本阿弥家などもう怖くはない。となると、特権を与えてまで鷹峯を本阿弥家に任せる理由などないのだ。

こうして鷹峯に現われた芸術村は、ひっそりと姿を消したである。現在の鷹峯には、光悦の屋敷が整備されて寺院となった光悦寺だけが、往時の面影を感じさせてくれる。

あとがき

この時代の権力者は、芸術の持つ影響力をよく理解していたようだ。だからこそ、彼らの作品を愛し、利用しながらも、それを生み出した者の力を削ごうとした。芸術家と言われた人の多くは、権力におもねることがなかったが、特に本阿弥家はその気風が強かったようだ。

また、刀剣の鑑定が家業である本阿弥家の人々は、武家と接する機会が多く、普通の商いよりも胆力を必要とする。家康は光悦とは何度か会っているが、彼ほどの人間なら光悦の人となりを見抜くこともできただろう。家康が愛し、しかし遠ざけておきたいと思わせるような、底知れない深さと肝の太さを、光悦は持っていたのではないだろうか。


【主な参考文献】
  • 本阿弥光甫 『本阿弥行状記』
  • 国立国会図書館デジタルコレクション 光悦 天 光悦会編
  • 森谷尅久 監修「〈時代順〉京都歩き」(PHP研究所、2012年)
  • 歴史の謎研究会(編) 『日本史の真相に迫る 「謎の一族」の正体』(青春出版社、2020年)

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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