安土…織田信長が最後に造った城と町

安土城図(出典:wikipedia)
安土城図(出典:wikipedia)
 一国一城の主たる戦国大名は、戦の戦略だけ考えていれば良いと言うものではありません。まずは戦が出来るだけの国力・金力・人力が必要です。そのための足場固めが領国経営です。織田信長は幻の名城「安土城」をどのように造っていったのでしょうか。

「人間こそ最高の資源である」

 「人は城、人は石垣」ではありませんが、戦の時に武器を取って戦ってくれるのも人間、田畑を耕して食物を栽培してくれるのも人間、商売をして銭を稼いでくれるのも人間です。まずは領内に家臣・百姓・商人を居つかせねばなりません。

 彼らは案外自由なもので「主を選ぶのはこちら」とばかりに非道な領主や主君の元からは逃げ出してしまいます。誰も耕してくれず、荒れ果ててゆく田畑を前に茫然自失、他国から農民をさらってきて無理矢理耕させた領主の話もあります。

 領主の城や館を中心とした城下町。領主はそこに役所を置いて家臣を住まわせ、人々が集まり、市が立ち、銭が落ち、そして賑わう…。 のはずですが、放って置いても人は集まらないため、町も村も住みやすい環境を整えねばなりません。領主は現在の「子育て支援の街」のような様々な魅力的な施策を用意し、人を集める必要があります。

壮大すぎる! VR再現した安土城動画(近江八幡市公式YouTubeチャンネル)

「城下町を栄えさせるぞ」

 岐阜城から安土城に居城を移した織田信長は、商工業者を引き連れて行きますが、彼らが居付くように準備を怠りません。

 天正4年(1576)正月の築城と同時に城下町の建設を始め、どこに街路を通し、どこにどんな職種の人間を住まわせるかの町割りを自ら行いました。そしてハード面を整えると同時に、翌天正5年(1577)に13ヶ条からなる『安土山下町中掟書(あづちさんげちょうちゅうおきてがき)』を出します。

 まず第一条として、安土の城下町での諸座・諸役・諸公事などはすべて免税とする「楽市令」を発布。いわゆる楽市楽座ですね。そのため、この掟書は「楽市令」とも呼ばれます。

 次に街道を行き来する商人は、上海道(東山道)ではなく、いずれも安土に宿泊するべし…。つまり、飲み食いや買い物に費やす銭・宿泊代はこの町に落とせってわけです。人馬の往来が増えれば町は賑わいます。ただし、荷物を運搬する者は荷主の都合次第と理解も示しています。

 馬の取引については、近江国中の売買はすべて安土で行う事と決めます。戦国時代、馬市は一大イベントで、多くの人馬が集まり、物売りも出るなどして大いに賑わいました。信長はその賑わいを安土城下で独占したかったのでしょう。

「安土に住めば特典があるぞ」

 信長は安土に住む利点も設けます。(※以下意訳)

建築・土木工事の労役負担の普請役は免除とする。ただし、信長の出陣中や在京中でその役目を担っている家臣が留守の時は手伝わねばならない。
 工事の負担は通常、信長の家臣やその家来衆が担いました。「楽市令」の発布された天正5年(1577)6月には、羽柴秀吉が「天主手伝いの衆」として子飼いの浅野長吉らの名がリストアップされた名簿を造っており、彼らが動員する家来の数を割り当てています。

 それでも足りない時は住民が徴収されましたが、ただ働きではなく、きちんと日当が支払われます。1日当たり100文程度、現代で言えば大体7~8千円程ですが、まずまずの賃金でしょうか。

運送用の馬の供出やその世話をする傳馬役も免除とするので、百姓どもは「大切な馬を取られるんじゃないか」と心配せずとも良い。国中の他の地域で徳政令、つまり借金棒引きが実施されても安土では行わないので、安心して金の融通をすると良い。
 「貸し渋り」はせずに大いに金を回せです。

他国の者が安土に越して来て住み着けば、以前から暮らしているものと同様に誰の家来であった者でもどこの国の人間であっても分け隔てはしない。もし以前の主人であることを理由にその者に賦役を課そうとしてもそれは禁じる。
 もし無理強いする者があらばこの信長に訴えればよいぞ、ですかね。

安土の町中に住む者は奉公人であっても各種職人であっても家単位に課した労働奉仕の『家並役(やなみやく)』を免除する。ただし信長の禄を得て住まいする者や御用を承る各種職人は個別に対応する。
 この辺りも細かく対応しています。

「正当な人間は正当な扱いを保証するぞ」

火事を出しても失火の場合は原因を明らかにした上でその家の主人を追放するが、事情により罪の軽減もある。放火の場合は「不注意千万」などと言って、火を付けられた側の責任は問わない。
 もちろん放火犯は厳しく追及し死罪を含む厳罰に処せられます。

罪人が貸家の住人として住み着いていたり同居していても、主がその事情を知らずに手助けもしていなければ主は罪に問われない。
 罪人については糾明したうえで処罰されます。

物を売り買いした時それが盗品であっても買い主が知らずに買ったのであれば罪には問わない。ただし盗人が売った品物と判別すれば、古法に従って品物は本来の所有者に返さねばならない。
 このあたり、現在の法律の“善意の第三者”を先取りしていますね。

喧嘩・口論・国質・所質・郷質(ごうじち)・押し買い・押し売り・押し借りは一切禁止する。
 国質・所質・郷質は中世における債権者・債務者の間で取り決められた差押え行為です。差押え行使の場所により国・所・郷と使い分けます。戦国時代は借金などを返済しない場合、債権者は時・所を選ばず相手の財産を没収できる習わしがありましたが安土では禁止しました。

 では踏み倒しても良いのか?そうではなく、次項に決めたようにきちんと手順を踏めと言っています。

安土城下に取り立ての使いの者を送り込む時は、事前に福富平左衛門尉(ふくずみへいざえもんのじょう)・木村次郎左衛門尉の両人に届け出て、その申し出の正当性を吟味した上で行わねばならない。
 ここまで詳しい条文を備えた楽市令は他に例を見ません。

おわりに

 安土は東海道・東山道・北国街道が合流する琵琶湖東岸の地で、城が築かれたのは海抜190mの安土山です。現在では湖から21kmほど内陸になりますが、築城時は琵琶湖最大の入江弁天内湖・伊庭内湖に半島状に突き出ており、城の裾を湖水が洗っていました。

安土城図(『国史参照地図』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
安土城図(『国史参照地図』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 信長は天正4年正月に縄張りを羽柴秀吉、普請奉行を丹羽長秀に申し付け、2月の中旬には早くも仮殿が造られ、自身が移り住んでいます。信長の気の入れようがわかると言うものです。

 このように信長が心を込めて築いた安土城の天主が完成したのは築城から3年後の天正7年(1579)、城郭全体の完成は天正9年(1581)とされています。信長が本能寺の炎の中に消えたのが天正10年(1582)6月2日ですから、信長はせっかく築いた城と城下町にわずかな期間しか住むことが出来ませんでした。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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