真田昌幸・幸村父子の人柄がわかる!?LINEトーク風に逸話をご紹介
- 2019/01/01
- 1. 関ヶ原直前!三成の誘いに犬伏の地で真田父子がとった選択は!?(1600年)
- 2. 昌幸、敵兵を上田城内に通す(1600年)
- 3. 昌幸の策で徳川軍を撃退(1600年)
- 4. 昌幸、死の間際に大阪の陣を予言(1611年)
- 5. 幸村、徳川方の使者・叔父の真田信尹の誘いを断る(1614年)
- 6. 幸村、和睦期間に甥・真田信吉の陣を訪れる(1615年)
- 7. 幸村、和睦期間に旧友と今生の別れ(1615年)
- 8. 幸村、夏の陣の軍議で後藤又兵衛と争論す(1615年)
- 9. 道明寺、真田隊と伊達隊の激闘シーン(1615年)
- 10. 主のいなくなった幸村の愛馬の行方(1615年)
- 11. 真田大助、静かに殉死の時を待つ(1615年)
- 12. 異例の首実検(1615年)
関ヶ原直前!三成の誘いに犬伏の地で真田父子がとった選択は!?(1600年)
━━━ 下野国・犬伏 ━━━
昌幸
ちっ!家康のやつめ・・ブツブツ・・。
信幸
おやじ様はなにをブツブツいっておられるのですか?
幸村
・・・ふっ(笑)
すると・・三成からの密書が送られてきた。
河原綱家
御屋形様!たった今、石田三成様から密書が届きました。
昌幸
なんじゃと~!?
その密書には、「秀吉の遺言に背き、秀頼を見捨てて出馬した家康に罪があるとして、秀吉の恩を忘れていないのであれば、秀頼に忠節を誓ってほしい」との内容が書かれていた。
昌幸
こ、これは・・!!
信幸へ急ぎの用がある故、ここ犬伏まで密かに来るように使者を出すのじゃ!!
そして信幸が犬伏に到着すると、昌幸は信幸と幸村を呼んで人払いをした。
こうして三成に着くか、家康に着くかを巡る真田家の密談が始まる。。
昌幸
さて、どうするかのう~。退屈だし、家康相手に一暴れでもしようかのう?
信幸
おやじ様!なにを言うておられます!!家康公を裏切るおつもりか!!
今の家康公はおやじ様が以前戦った相手ではござらぬぞ!負け戦をするおつもりか!?
その時、ガチャッ!!
河原綱家が様子を気にしてか、部屋の戸を開けて伺いたてる。
河原綱家
御屋形様!いかがなされましたか?
昌幸
!!!
何人も部屋には入るなと申したはずじゃ!!
昌幸履いていた下駄を投げつけ、河原綱家はこれを顔に受けて前歯が砕かれる。
河原綱家
グギャーー!
・・・ご・ご無礼いたしましたー!!
そして、綱家は涙目で部屋からでていった。
昌幸
ふんっ!邪魔がはいったが、幸村よ。おぬしはこれをどう見る?
幸村
それがしは、初めからおやじ様にどこへでも着いていくと決めております。
信幸
・・・・・・・・
そして、しばし沈黙が続いた後・・・
昌幸
・・・・。信幸!わしゃ~決めたぞ~。三成方について、あのタヌキを討つ!!
お主はどうするのじゃ?
信幸
!!!!!!
・・・・。
わたくしは・・・徳川家には恩がございまする。それに家康様の重臣である忠勝殿の娘を娶っている立場上はそれゆえ、徳川方につきまする。
昌幸
ほうかあ~。それじゃあこれからお主とわしらとは敵同士じゃ。しかし、これで三成と家康のどちらが勝った場合でも真田家は生き残れるということじゃあ~~!!
信幸は正室が家康の功臣・本多忠勝の息女であり、また家康の信任も厚いことから、徳川氏に残るといい、そして、豊臣氏と縁の深い三成の盟友・大谷吉継の息女と姻戚にあった幸村と、豊臣秀吉の恩恵を受けた昌幸は三成に加担することを決断。
こうして昌幸・幸村の2人と信之は袂を分かつこととになるのであった・・・。
昌幸、敵兵を上田城内に通す(1600年)
※『名将言行録』より
これは第二次上田合戦の最中、徳川秀忠が「冠が岳」にいる味方の先陣に連絡をとるため、家臣・島田兵四郎 という者に使いを命じたときの話である。
━━信濃国・秀忠陣営━━
秀忠
かくかくしかじか・・・・
・・というわけで先陣のところに行け。よいな?
兵四郎
ははーーーっ!
━━信濃国・上田城━━
秀忠の命を受けた島田兵四郎は地理に疎く、先陣への連絡に上田城の周りを通るのでは時間がかかりすぎると思った。
そこで兵四郎は馬で敵城の上田城の大手門前まで乗りつけ、真田兵に向かって大声で叫んだ。
兵四郎
それがしは江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者だ。
君命を帯びて、我が先陣の「冠が岳」へ急いで連絡に行きたいので、どうか城内をお通し願いたい!
真田兵たち
なんだあ?
あの者は一体なにを言っているんだ。
真田兵たちはびっくりしたが、とにかく城主の昌幸に事の次第を報告した。
真田昌幸
はあ・・。それは誠か?
なんと肝っ玉のすわった奴じゃ。その勇ましさには感服じゃ。もし通さなければこちらの料簡の狭さとなるであろうから、門を開いて通してやれい!
こうして上田城の大手門は開かれ、兵四郎は城内を馬で駆け抜けて裏の搦手門まで行くと再び叫んだ。
兵四郎
どうか帰りの際にも城内をお通し下され!
そう言って兵四郎は先陣のところに向かい、連絡を終えた。そして再び上田城の搦手門まで戻ってくると、また門番に頼んだのであった。
これに昌幸は感服し、兵四郎を引見した。
真田昌幸
そなたが兵四郎と申す者か?
先程はよくぞ申したな!感服しきりじゃ。
そなたは城を通ったから、我が城内の要害を目に収めたことであろう。それは城攻めに役立つようにみえるが、要害というものは城の本当の固めではない。真の要害とは大将の心の中にあるものよ。
兵四郎
なるほど・・・
そうして昌幸は兵四郎に城内を見せたのであった。兵四郎は昌幸に礼を述べ、自陣に戻ると秀忠にこれを復命した。
この話を聞いた人々は言った。「道を借りる武士も武士なら、それを貸す大将も大将だ。昔からこんな事は聞いたことがない。珍事であり、英雄の行為だ」と。
昌幸の策で徳川軍を撃退(1600年)
━━ 慶長5年9月2日 ━━
【信濃国・上田城】
昌幸
内府(=家康)め、やはり信幸をこちらに向かわせたか。総勢3万8千で総大将は秀忠か・・。
こちらは2500だが分は地の利を知る我らにある!
幸村
父上。ではわたしは砥石城へ行って参ります。
昌幸
うむ。源次郎(=幸村)頼んだぞ!
━━ 9月3日 ━━
昌幸は信幸に使者を送り、剃髪して降参する旨を伝えた。これに信幸と秀忠は・・
信幸
こ、これは!!・・・・。
つい先日に石田殿に付いたというのに、父上は一体なにを考えておられるのか・・。
秀忠
そうか!安房守(=昌幸のこと)め、徳川の大軍に恐れをなして降参するというか!
それは愉快じゃ!がはははは!
ではただちに使者を派遣し、上田城を明け渡せば赦免することを伝えよ!
こうして喜んだ秀忠は上田城の昌幸のもとに使者を送り、上田城の開城を迫ったのであった。
秀忠の使者
真田殿、秀忠様からの伝令を申し上げます。上田城を明け渡せば赦免するとのことでございまする。無益な争いは避けたいとのことなのでどうか降伏をしていただきたいと存じまする。
昌幸
そうですなあ。承知いたしました。ただ、開城の準備もあるので少々待ってくださらぬかのう。
━━ 9月4日 ━━
秀忠の使者
真田殿、準備は整われましたか?
昌幸
そうですなあ。
・・・・・。
おおよそ籠城の準備が整いましたので先日の件はお断りいたしまする。
フフフ。秀忠にそう伝えて参るがよいわ!
秀忠の使者
!!!?
・・・・ぐぬぬっ!!
そして、使者からの伝令を受けた秀忠は・・・
秀忠
なにぃ!?
おのれ~たぶらかしおって!安房守の奴め、断じてゆるさんぞ!!
ただちに真田征伐じゃあ~~!!
━━ 9月5日 ━━
砥石城に入った幸村は、砥石城攻略を指示された兄・信幸率いる徳川の先鋒隊と激突した。
幸村は徳川軍に小当たりしつつ、砥石城を捨てて上田城へ向かった。
こうして砥石城を占領した徳川軍は次に上田城へ向けて進軍をはじめ、
幸村は徳川軍を誘いこむ形でそのまま上田城内に入った。
幸村
こちらにまっすぐに追ってきたようだな。思惑どうりだ!
昌幸
源次郎、上出来じゃ。城の外を見てみろ!
幸村
徳川軍は我らが呼吸を乱れさせていることに気付いておりませぬな。
昌幸
そうじゃ!
しかし、徳川軍には信幸がついておる。油断は禁物じゃ!
━━ 9月6日 ━━
秀忠は上田城を一望できる染屋原に本陣を置いて上田城攻めに着手した。
一方、昌幸は事前に以下の策をとっていた。
- 領内の百姓や町人らに対し、敵将の首1つにつき、知行100石を与える約束をした
- 近隣の山や上田城側面の林に伏兵を配置
- 神川の水を上流でせきとめておく
幸村
父上!城の外をご覧くだされ。徳川の陣が見えますぞ!
昌幸
フフフ。源次郎。そろそろ参ろうかのう。
昌幸と幸村は秀忠を挑発するために物見に向かった。
徳川家臣
秀忠様!申し上げます!真田父子が50騎ばかりのみでこの陣の手前まで物見に現れております!!
秀忠
なに!?このわしを物見にだと!!なめおってからに~!!
本多正信
若様、あまり血気にはやるのは禁物でございますぞ。
秀忠
だまれ!天下の徳川が真田ごときに引き下がってられるか!
鉄砲隊よ!撃てーーい!
奴らを逃さずに討ち取るのじゃーー!!
昌幸
フフフ。源次郎。そろそろ城へ戻ろうかのう。
この瞬間に徳川軍は真田の戦略にまんまとはめられたのである。
昌幸は小さな盆地が密集する信州の地形を活かし、伏兵を要所に配置していた。そして、進軍する徳川軍に対していっせいに襲いかかり、激闘となって城に撤退していた真田父子も出陣した。
混乱に陥った徳川軍が敗走をはじめると、昌幸は事前にせきとめていた神川のせきを一気に切らせ、敗走する徳川兵の多数はその濁流に飲み込まれて溺死していったのであった。
昌幸
これで秀忠は三成との決戦に間に合うまい。
幸村
父上、主力の秀忠軍なしでは内府もどうしようもないでしょうな。
(・・・わが父ながら、なんて恐ろしい人だ)
徳川軍は次々と要所から現れる真田の伏兵の攻撃に退却せざるを得ないのであった。
━━ 9月7日 ━━
秀忠
おのれ~真田め!一矢報いねば武士の面目がたたぬ!かくなる上は・・
本多正信
若様!もはや猶予はありませぬぞ!!
急ぎ西へ向かわねば天下分け目の合戦に間に合いませぬ!!
秀忠
!!!
本多正信
・・・もう真田にかまっている場合ではございませぬ。
秀忠
・・・・・・。
(あああ~そうであった~。)
昌幸、死の間際に大阪の陣を予言(1611年)
── 紀伊国・九度山 ──
幸村
父上・・。
昌幸
ハァ・・ハァ・・・・。
源次郎(=幸村)よ。わしはもうこの先長くはない。
・・・・不覚じゃ。この先世が大きく動こうとするというのに、家康よりも先に尽き果てることになろうとは。。
幸村
父上!なにを仰せられますか。まだまだこれからでございます。
昌幸
・・・・豊臣と徳川の戦はあと数年もすれば現実となるであろう。
源次郎。お主がこのわしの代わりに大阪城へ行け。秀頼公の元で家康と戦うのじゃ!
幸村
父上!なにか策でもおありなのですか?
ぜひその策をそれがしにお聞かせください!!
昌幸
源次郎よ。・・ハァ・ハァ・・。
策を教えるのは容易いが、それを実行するのは容易ではないぞ。
そして、以下のような壮大な昌幸の策が幸村に伝えられた。
- 豊臣と徳川が手切れとなったら、まず大阪方の軍勢を率いて尾張に奇襲を仕掛ける。
- 徳川の反撃がきたら決戦をするのではなく、軽くあしらって時間を稼ぎ、味方の軍勢を近江まで後退させる。
- 近江の瀬田橋、次いで京都の宇治橋を落として防衛を固めて、その間に徳川の拠点・二条城を焼き払う。
- その後、大阪城に籠城して長期戦を展開。徳川方の士気低下や疲弊によって動揺や不満を誘い、大阪方へ転ずる者がでてくる。
- その結果、家康は大阪城への攻撃を継続できなくなり、撤退を余儀なくされ、再度天下は豊臣方にかたむいてくる。
幸村
なんと!!
(父上はそのような事を考えていたのか・・・。)
昌幸
・・ハァ・・ハァ。
しかし源次郎よ。この秘策は徳川に2度勝利した名声をもつわしだからこそ可能なのじゃ・・・ゴホッ!ゴホン!。
・・・お主はお主であってわしではない。
幸村
そ、そうかもしれませぬ。しかし・・・
昌幸
・・・・ゴホッ!ゲホホッ!!!。
・・お主に武将としての器がないといっているわけではない。ただ、若く名もないお主が策を披露したところで皆に受け入れられるかどうかなのじゃ。
・・・源次郎。太閤が遺した難攻不落の大阪城で家康を討て。。わしの代わりに。。
幸村
・・・。
昌幸の遺言は、のちの大阪の陣で実際に的中するという、悲運の予言であった。
幸村、徳川方の使者・叔父の真田信尹の誘いを断る(1614年)
大阪冬の陣の最中、徳川家康は豊臣方の将への調略を行なっており、幸村の調略も試みている。この逸話は徳川方に仕えていた幸村の叔父・真田信尹が家康の命で幸村の説得に訪れてきた時の話である。
━━大阪城:幸村の陣━━
真田信尹
フォフォフォ。久しぶりじゃのう、源次郎。
幸村
叔父上、ご無沙汰しております。本日はどういった用件で参られたのでございますか?
(わざわざ危険を賭してくるとは。大体察しがつくな・・。)
真田信尹
そなたの働きは我らが徳川陣営にも伝わっておるぞよ。大御所様(=家康)も敵ながらとそなたの策に感服しておる様子じゃ。
幸村
・・・(やはりそうきたか・・)。
どういうことでございますか?
真田信尹
フォフォフォ・・。率直に申そう。大御所様に仕えぬか?
大御所様はそちをとても高く評価しておる。もし仕えてくれるなら信濃国三万石を遣わすと仰せじゃ。いかがなものじゃ?
幸村
一族の誼みをもっておいでいただきましたこと、誠にかたじけなく存じます。
しかし、それがしは関ヶ原の役からは家康公とは御敵となり、その後は高野山で落ちぶれて草臥れていました。それが秀頼公にこうして召し出されて今に至るです。
それ故、それがしは秀頼公との約束を破って家康公に仕えることはできません。
真田信尹
武士とは忠義によって身を立てるもの・・。これを破ることは道理にはずれることじゃ。しかし、わしも大御所様への忠義でこうしてそなたを誘っているのじゃよ・・・。
こうして信尹は家康の元へ帰り、そのいきさつを復命した。
━━大阪城周辺:家康の陣━━
家康
ほほう・・・。そういうことであれば致し方ないのう。しかし、誠に惜しい武人じゃ。
・・信尹よ。命を救いたいという、このわしの思いを伝え、信濃一国を遣わすことで仕えるように再びたずねて参れ。
家康の命をうけた信尹は再び、幸村のところへ赴き、説得にあたった。そしてこれを伝え聞いた幸村は・・・
━━大阪城:幸村の陣━━
幸村
家康公のお言葉、誠にありがたきことです。しかし、それがしにはどれ程の領地を賜ろうとも秀頼様を裏切ることはありません。
真田信尹
なにゆえに・・?
幸村
それがしは・・はじめから討死覚悟で臨んでおります。
秀頼様への忠義、そして武士として、一族としての誇りがあるのです。
叔父上、これ以上のことは・・・。もう会うこともございませぬ。このままお引き取り下され。
真田信尹
もうなにも言うまい・・・。
信尹は涙して幸村と別れ、家康の元に戻り、すべてを伝えた。すると家康は・・
━━大阪城周辺:家康の陣━━
家康
なんとあわれな。筋の通った性分か。まさに日本一の勇士じゃ。安房守(=昌幸)にも劣らぬ男じゃ。
こう言って称賛したのであった。
幸村、和睦期間に甥・真田信吉の陣を訪れる(1615年)
※『翁物語』より
和睦成立後のある夜、幸村が甥の真田信吉(信之の長男)の陣を訪れた。
信吉は父・信之の代わりに真田藩士を率いて大阪冬の陣に参陣し、徳川幕府軍による大阪城包囲の一翼を担っていた。信吉はこのときまだ19歳で、叔父の幸村と会うのは幼少のころ以来の事であった。
━━大阪城周辺、真田信吉の陣所━━
信吉家臣ら
幸村様がお越しになられたぞ!!
・・がやがやがやがや・・
そして、幸村はいかにも信吉の叔父といった貫禄で上座に座った。
幸村
お主が信吉か・・・?
これはすいぶんと大きく立派になったものだな!
信吉
叔父上。大変おひさしゅうございます。
(・・といっても叔父上の事、ほとんど覚えていないんだけど。。)
幸村
お主がまだ4歳の時に会って以来だったかな・・。
まさかこんなに立派で優れた男になっていたとは。伊豆守殿(=真田信之)が年老いても心配なかろう。
信吉
それがしにはもったいないお言葉でございます。
こたびは城から離れた真田丸を守備して誠に御苦労様です。御扱い(=和睦)にならなかったら危ないところでしたね。
幸村
そうだな・・。徳川のあれだけの大軍に攻め立てられたら、敵うわけがあるまいな。
しかし、それがしも最初から覚悟を決めておる。そうやすやすとやられるわけにもいかない。
信吉
・・・・。
(我が父上にも劣らない大したお方だ。)
そうこう話をしていると、やがて盃が出てきた。
そして幸村は老臣の矢沢但馬守頼幸(=矢沢三十郎)、木村土佐守綱茂、半田筑後守、大熊伯耆守の四人を呼び出して一緒に酒を飲んで、城へ戻ったのであった。
幸村、和睦期間に旧友と今生の別れ(1615年)
※『武林雑話』『旧伝集』より
幸村の武田家臣時代からの旧友・原貞胤は、大阪の陣で徳川方の越前松平軍に属しており、松平忠直の使番(=伝令・巡視の役目)を務めていた。幸村は徳川との和睦期間中にその貞胤を招待した。
--大阪城--
幸村
はっはっは!よいぞ大助ーー!
原貞胤
・・・。
幸村は小鼓を取り出して嫡男・大助に曲舞(くせまい)を舞わせた後、茶を点じて貞胤をもてなした。
幸村
こたびの戦で討ち死覚悟していたところが、思いがけず和談となって今日まで生き長らえ、2度お目にかかれたのはうれしゅうございます。
不肖ながら一方の大将を仰せつかったこと、今生の思い出であり、死後の面目と存じます。
原貞胤
・・・。
幸村
御和睦も一時のこと。おそらくまた戦いが始まるかと・・。
さすれば我が父子は一両年中に討ち死を遂げることになりましょう。
原貞胤
・・・。
そして幸村は床に飾られている鹿の角打った兜を指し、続けて言った。
幸村
貞胤殿・・。これをご覧くだされ。
これは真田代々の宝ですが、父・安房守から我らに伝えられました。
原貞胤
!?
幸村
最後の戦いにはこの兜を着けて討ち死いたしましょう。
戦場でもしこの兜を見たら、我らの首とおぼしめして、一遍の御回向をお願いします。
原貞胤
・・・。
(うう~・・・)
幸村
主君のために討ち死するのは武士の習わしですが、大助はこれぞと思う事にも会わず、一生浪人で15歳になるのが早いか、戦場のコケと埋もれること、誠に不憫でございます。
原貞胤
・・・。
(うおお~!!なんて切ないのじゃ~!)
幸村はこうして息子・大助のことを思い、涙ぐんだ。
原貞胤
・・・。
武士ほど儚いものはない。戦場に赴く身は誰が先後を定めましょう。
必ず冥途でお会いしましょうぞ。
2人はこうして語り合った。その後、幸村は白川原毛のたくましい馬にゆらりと乗って5、6度静かに乗り回して、こう言った。
幸村
もし重ねて戦があったなら、御城は破却せられたことゆえ、必ず平場の合戦となりましょう。
天王寺裏へ乗り出し、東方の大軍に渡り合い、この馬の息の続くほどは戦って、討ち死にすべしと存じ、秘蔵しております。
幸村は馬から降り、これが今生の暇ごいとまた盃を指し、夜半に及んで立ち別れた。その後、幸村は来たる大阪夏の陣でその兜をつけ、その馬に乗って討死したのであった。
幸村、夏の陣の軍議で後藤又兵衛と争論す(1615年)
※原作:『常山紀談』『名将言行録』
これは慶長20年(1615年)、大阪夏の陣での徳川との決戦を前にした軍議でのことである。
第一の席に長宗我部盛親、第二の席に真田幸村、その次に毛利勝永が列座した。
── 大阪城 ──
豊臣秀頼
こたびの決戦をいかにすればよいのか、皆の考えが聞きたい。
幸村
まずは長宗我部殿から申されませ。
長宗我部盛親
・・いや、真田殿でなくてはこのような場で意見を言いだせる者がいるとも思えぬ。まずは真田殿が。
幸村
・・・ならば申し上げます。
昨年は我が大阪城は堅固であり、兵糧も蓄えられておりました。日数が経てば必ずや西国の者に大阪に心を寄せる者、敵方で心変わりをする者も現れるだろうと思っていたところに、意外にも和平となって大阪城の堀は埋立てられてしまいました。それ故、城を守る方法はないかと存じます。
幸村
ただ城外に討って出るのならば、秀頼公がご出馬され、伏見城を攻め落としてすぐに上洛、洛外を焼き払い、宇治・瀬田の橋を引き落とし、所々の要害を守備し、まずは洛中の政治を御取り計らいください。
その後、勢いによって再び軍議を行うべきかと。もしご運が尽きたとしても、ご上洛なさって一度でも"天下の主"と号して洛中の政務を執り行なわれましたならば、後代の名聞もこれ以上のものはありますまい。
長宗我部盛親
・・・なるほど。確かにそのとおりだ。
幸村の意見に長宗我部盛親をはじめとして皆が同意したが、大野治長だけが "秀頼公の出馬は軽々しい行動である" として納得しない様子を見せたため、幸村の案は議決せずに軍議は終了してしまった。
しばらくして人質に出されていた大野治長の母が返された頃、徳川方の軍勢が伏見まできたとの噂が届くと、これを受けて再び豊臣方の軍議が開かれることとなった。
最初、またも長宗我部に発言を譲られた幸村が進み出て言った。
幸村
家康の戦はいつも勢いに任せ、攻め込んでくると聞いておりますが、まことにその通りだと存じます。
そのワケは、伏見に着陣しながら軍兵の疲れを休めることもなく、そのまま茶臼山まで押し寄せようというのは、あまりにも急ぎすぎているかと。
幸村
伏見から大和路へ押し出してくるには、その行程は十三里(=約52キロ)ですから、敵はますます疲れることでしょう。
そこから考えてみますと、明日の夜には徳川はどんなことがあっても冑を枕にしてひと眠りするかと。これこそ夜討ちの絶好の機会にあたっていると存じます。拙者がむかっていき、一挙に勝敗を決しましょう。
他の牢人たち
他の牢人A:さすがは真田殿!
他の牢人B:それなら一気に徳川をたたきつぶせそうじゃ~
豊臣秀頼
ほかに意見のあるものはおるか?
こうした中、今度は後藤又兵衛が進み出て言った。
後藤又兵衛
真田殿の考えはいかにもよろしいかと存じます。
しかしながら、真田殿を夜討ちの大将とするのは、万に一つでも討ち死になさるようなとき、諸人は落胆するでありましょう。そもそもこのたび、諸国の牢人どもがこの大阪に馳せ参じたのは、ひとえに真田殿を目当てにやってきているのです。
幸村
ええっ!?
後藤又兵衛
そのようなわけで夜討ちならこの又兵衛が引き受けましょう。
幸村
ともかくここは拙者が参ります。
後藤又兵衛
あとの戦が大事でござる。是非とも真田殿は残り留まられよ!
このように争論となり、結局は決着がつかずに夜討ちは中止となってしまったのである。
道明寺、真田隊と伊達隊の激闘シーン(1615年)
(『名将言行録』より)
これは慶長20年(1615年)5月、大阪夏の陣における道明寺の戦いでの真田幸村隊と伊達政宗隊が激突したときの話である。
── 5月5日朝、道明寺付近 ──
真田隊の物見
申し上げます!! 旗が3~4本、兵が2~3万ほどこちらにやってまいりました。
幸村
・・・そうであろうな。
真田隊の物見
???
この報告の軍勢は伊達政宗の隊のことであった。
真田隊の兵たちはすぐにでも出陣するのだろうと鼻息を荒くしていたが、幸村はこの時、それ以上のことは何も言わなかった。
── 5月5日正午ごろ ──
真田隊の物見
申し上げます!!今朝のとは旗の色が異なりますが、旗が2~3本と兵2万ほどが、はっきりとは見えませんでしたが竜田越を押し下りました。
この報告の軍勢は徳川忠輝の隊のことであった。
幸村
そうか、いくらでも越させればよい。一か所に集めさせておいて、それを打ち破ったらさぞかし痛快であろうよ。
真田の兵らは幸村が一向に動かない様子をみて、はやり立つ気持ちもおさまった。
そして夕食をすませると、ようやく幸村は動き、その夜には道明寺表に陣を構えたのであった。
── 5月6日朝 ──
真田隊に先立ち、渡辺糺隊が徳川の水野勝成隊と激闘を繰り広げた。しかし、渡辺糺は深手を負って幸村に遣いを出した。
渡辺糺の使者
伝令です。渡辺殿はただいまの戦で負傷し、再び戦うことができません。
"貴殿の兵のじゃまになるゆえ、脇に引いて側面を突くべく控えようと、そうすれば貴殿の力にもなれる" とのことでございます。
幸村
承知いたした。では渡辺殿にお伝えくだされ。
"お働きはまことにお見事でございました。これから先はそれがしがお引き受けいたします。" と。
そう答えた後、幸村は兵を進めていくと、伊達政宗隊が迎撃してきた。
伊達の騎馬鉄砲隊
いまだ!撃てーーーい!
これに幸村の先鋒隊は伊達の騎馬鉄砲隊の一斉射撃を受けて多くが死傷。戦場が瞬く間に広がった鉄砲の煙で一寸先もみえなくなるが、幸村がその中を駆けぬけてきて大声をあげた。
幸村
ここをふみこらえよ!たとえ片足でもここで引けば全軍まるつぶれだぞ!
こうして幸村が下知すると、真田の兵は皆、地に多く繁っている松原を楯にして、槍の柄を握りながら地に這いつくばり、後ろに退く者はいなかった。
やがて伊達の鉄砲隊が気勢をそがれたのか、砲声も少なくなり、煙も薄くなってきたところで、幸村が・・
幸村
かかれ!!
頃合いをみて号令をかけると、伏せていた真田兵が立ち上がって伊達隊の先鋒隊を槍で突いて、追い崩した。
これを機に真田隊は総攻撃をしかけて伊達隊を一気に追い払った。
こうした中、真田隊の側面攻撃を恐れて動けずにいた徳川方の別の隊・水野勝成は伊達政宗に真田隊を攻撃させようと申し出た。
伊達政宗
我が軍はすでに疲れ果てている。合戦は何も今日に限ったものではない
政宗はそう答えて、これを拒否した。
これに対して水野勝成は、
水野勝成
小人数の敵を目の前にして、忠輝・政宗ともあろう者が縮みあがっているとは恥ではないか!
こう言って同じように徳川忠輝隊にも真田への攻撃要請をしたが、忠輝もまたそうすることができず、水野勝成自体も兵の少なさから動けず、結局引いてしまうこととなった。
幸村は午後2時ごろまで戦いを続け、その後は徐々に兵を引き上げたが、その粛然とした様子に徳川方の者は感歎しない者はいなかったという。
主のいなくなった幸村の愛馬の行方(1615年)
※『見聞随筆』ほか
慶長20年(1615)5月、天王寺の決戦で幸村は討死し、徳川方の榊原康勝も大損害を受けたが、既に徳川と豊臣の勝敗は決していた。そして康勝は、真田隊と味方の松平忠直隊の戦いがほとんど終息したのを見計らい、使番・沼上八兵衛に様子をみてくるように命じた。
──大阪城付近の戦場 ──
天王寺決戦の決着がついた頃、沼上八兵衛は戦場の様子を見に馬をとばして進んでいくと、その途中で口取り(=馬の口をとって馬を押さえ込む者)に牽かれた芦毛の馬に出くわした。
その馬には六文銭の金具をあしらった黒鞍が据えられており、それは幸村の乗っていた愛馬であった。
沼上八兵衛
おい!それは誰の馬だ?どこに牽いて行くつもりなのだ。
口取り
(しまった!徳川兵に見つかってしまった・・)
・・・これは真田幸村公の馬だが、幸村公は討ち死にしてしまった。だから城内に牽いて帰る途中なのだ。
沼上八兵衛
真田の馬だと?
ほほう・・。どれ、わしにその馬にまたがせてみよ。
口取り
!!!
口取りはなんの抵抗もできず、沼上は幸村の愛馬をとてもいい馬だと思ってその上に乗った。そして、精悍な馬で乗り心地もよかったため、沼上は "さすが大将の騎乗していた馬だ" と感心した。
口取り
・・・この馬は幸村公に形見として信濃へ牽いて帰ってほしいと頼まれておるのだ。どうか返してくれぬか?
そう口取りが言うと、沼上は素直に馬から降りた。
馬を無事に返してもらい、一安心した口取りは、沼上と別れて再び城のほうへ向かっていったが、一町(=約100m)ほど歩いたところで事件が起きた。
口取り
ぐぎゃあああーー!
なんと、口取りは一人の武士にあっけなく殺されて首をとられてしまった。
沼上はこの一部始終を目撃していたが、あろうことかその武士は同じ榊原康勝隊の者だったのである。
── 慶長20年(1615年)未明 ──
口取りを殺害した男はのちの手柄報告の際、この一件での首級も数に含めたことで50石の加増となった。
そして、その事を知った沼上はその男に問いただした。
沼上八兵衛
なぜお主が加増に?
わしはお主が豊臣方の口取りを討ったのを見ていたが・・もしや・・
その男
ああん?ああ、あれね・・。
たいした者ではなかったが、首をとってこの者はなかなか手ごわい相手だったといって加増を勝ち取ったのじゃ!
ギャハハハ!
と事の経緯を告白したのであった。
なお、幸村の愛馬がその後どうなったのかは史料に残されていない。
真田大助、静かに殉死の時を待つ(1615年)
※原作:『武辺咄聞書』『大阪御陣覚書』
これは大坂夏の陣で豊臣方の敗北が決定づけられた後の、真田幸村の息子・大助の最期の話である。
大阪城が炎に包まれてまもなく陥落という中、豊臣秀頼と淀殿は焼け残りの土蔵に潜んでおり、大助も幸村の命令どおり、秀頼の側に仕えて警固していた。
--落城寸前の大阪城--
速水守久
真田は豊臣譜代ではなく、牢人なのだから、貴殿は秀頼様の行く末を見届けなくてもよいのだぞ。
大助
・・・・・。
速水守久
譜代の人々ですら逃げて行ったのだから、ここを早く立ち去ったほうがよい。
大助
・・・・・。
父から「自分は戦死するが、お前は秀頼公の最期のお供をせよ」と言い渡されております。
大助は一言だけ返答し、その後はただ黙っていた。
しばらくして、豊臣の敗兵が落ち延びて大阪城へ次々と戻ってきた。大助はいてもたってもいられず、豊臣の敗兵に幸村の行方を聞きまわった。
大助
あの・・真田左衛門がどうなったか知りませんか?
とある豊臣の敗兵
はあ・・・はあ・・・。
・・真田殿のせがれか。すまぬが行方はわからぬ。
そしてようやく幸村の最期を知っている兵に出会い、その討ち死にの知らせを聞くと・・・。
大助
ううっ・・。
ううううっ・・・・・。
大助はうなだれて涙をこらえ、その後は黙って母・大谷夫人から与えられた水晶を取り出し、念仏を唱えはじめた。
城内の豊臣の者たち
・・なんともかわいそうに。
・・どうしてあげられることもできんのう。。
周囲の者は皆、大助を不憫に思い、これに速水守久が大助のそばにきて声をかけた。
速水守久
貴殿は一昨日の戦い(道明寺の戦い)で高股に負傷している。秀頼公はまもなく和談となって助命され、ここから出られるであろうから、貴殿は早々に立ち去るがよい。
大助
なむあびだぶつ・・・なむあみだぶつ・・・ぶつぶつぶつ・・・。
守久は人を添えて徳川方の真田信吉の陣まで送り届けようと諭したが、大助はこれに全く応じず、ただひたすらに念仏を唱え続けていた。
櫓の中は多くの人で混雑していたため、大助は外の広い庭に藁(わら)を敷き、前日の昼から食事もせず、静かに秀頼に殉死するときを待っていた。
城内の豊臣の者たち
ううっ。。ううううっ。
そのあまりにも不憫な姿に皆、涙を流したのであった。
異例の首実検(1615年)
※原作:『落穂集』『慶長見聞書』『真武内伝追加』ほか
-- 場所不明 --
家康は幸村の首級を次の間(=主君のいる部屋の次の部屋)に持ち込ませると、幸村を討ち取った西尾仁左衛門にその首を確認させた。
家康
西尾。どうじゃ?歯は欠けておるのか?
家康は幸村の歯が欠けていることを知っていたようである。
西尾
はっ!確かに向歯(=上顎の前歯)が欠けております!
家康
うむ・・・・。
!!! そうじゃ!真田信尹を呼べ!!
家康は念のため、幸村の叔父・真田信尹も呼び出して確認させようとした。
真田信尹
大御所様、お呼びでしょうか?
家康
うぬ。お主は2度も大阪で会っておるだろう。首を確認してみよ!
信尹は大阪の陣の最中、"幸村を味方に引き入れよ" との家康の命を受け、使者として2度も幸村の元へ訪れていたのだ。
そして信尹はその首を確認するが、一向に幸村がどうかの見分けがつかずに困惑した。
家康
どうした?なぜわからんのじゃ?
真田信尹
はっ!それがしが左衛門(=幸村)と会ったときは夜でございました。また、そのとき彼は極めて用心していて近づようともせずに、遠くから話をしただけでしたゆえ・・・。
家康
・・・もうよい。さがれ!
このように首実検は念入りに進められたのであった。
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そして、最後に家康は・・・・
家康
左衛門にあやかれよ。
と言い、幸村の頭髪を抜いて諸将らにとらせた。
そして、皆がその武勇にあやかりたいとして、彼の頭髪を抜いて持ち去る者が絶えなかったという。
最後に。以下が幸村を称賛した最も有名な文面であろう。(『薩藩旧記雑録後編』)
「真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申事に候」
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