「光る君へ」夫・藤原宣孝を亡くした紫式部の心情とは?

 大河ドラマ「光る君へ」第29回は「母として」。

 貴族・藤原宣孝の妻妾となり、長保元年(999)頃には、娘の賢子を出産した紫式部。宣孝が自らのもとに訪れないなど、寂しい思いをすることもあった式部ですが、それでも夫がいるということは、彼女にとって心強いものであったと推測されます。

 宣孝は廷臣として、式部と結ばれてからも、様々な仕事(宇佐奉幣使、平野臨時祭勅使など)をこなしていましたが、長保3年(1001)2月上旬頃には、病に犯されていたようです。宣孝は藤原道長から呼び出しを受けたのですが「痔病」により参ることができなかったのです。そして同年4月25日に死去してしまいます。この事から、おそらく単なる「痔病」ではなく、大腸癌や直腸癌だった可能性もあるでしょう。

 『紫式部日記』を見てみると、夫を亡くした式部の悲しみの心がよく分かります。

「夫を亡くして将来の頼みもないのは、本当に思い慰める方法もありません。しかし、寂しさの余りに心が荒み、自棄の振る舞いをする身だとだけは思いますまい」
『紫式部日記』

との述懐の文章には、式部の張り裂けそうな心情が窺えます。夫・宣孝を亡くした式部の心は「憂鬱」であり、様々に思い乱れ、それは数年は続いたとのこと。物思いに沈み、花の色を見ても、鳥の声を聞いても、その他の自然の移り変わりを見ても「その時節が巡ってきたのか」と思うのみであったようです。風物を愛でる心情ではなかったのです。

 約2年という宣孝との短い結婚生活。冒頭に記したように、式部は結婚生活において寂しい思いもしましたが、それも夫が亡くなった今となっては良き思い出。式部の心の中には、そうした思いもあったかもしれません。もちろん、寂しさだけでなく、

「一体、我が身はどうなることだろうと思うばかりで、行く末の心細さは晴らしようもない」
『紫式部日記』

との将来の不安もありました。

 (もし、父・藤原為時に何かあったらどうしよう)という不安も式部の頭を占めていたかもしれません。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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