女童 女君に仕え、その無邪気な姿を愛された少女たち
- 2024/07/24
源氏物語の女童たち
『源氏物語』にも女童たちの愛らしい姿が描かれています。朝顔の帖では、源氏が大層雪が降り積もった庭に女童を下ろして雪遊びをさせています。少女たちは月光に輝く雪の庭を喜んで走りまわったり、雪まろげを作ったものの、雪玉が大きくなって転がせなくなったり困っている様子です。
野分の帖では夕霧の中将が野分の見舞いに父源氏の大邸宅・六条院を訪れる場面があり、源氏の命で夕霧は秋の御殿に宿下がりしておられる秋好中宮を見舞います。中宮は何人かの女童を庭に下ろして風に吹き倒されてしまった萩や藤袴を起こさせていました。少女たちが手に持った虫篭に露を入れたり、手折った撫子の花を中宮に見せたりする愛らしい様子が描かれます。
このように女童たちは実際に仕事を言いつけると共に、愛玩物のようにその可愛いらしい姿で場を華やかに彩り愛でる対象とみられていました。
女童の出自
どんな子供たちが女童になるのか? と言うと、中流から下流貴族の家に生まれた子供で、父親や母親が使えていた上流貴族の家の妻や娘たちに使えました。母親が女房として出仕する時に子連れで仕える事も珍しくなく、自然と主家に馴染んでそのまま女童として仕えました。和泉式部の母は冷泉天皇の中宮昌子(しょうし)内親王付きの女房でしたが、和泉式部も「御許丸(おもとまる)」と呼ばれ、女童として仕えていたようです。姫君が入内する時には女童も付き従って内裏に上ります。7~14歳ぐらいまでの年齢で、幼いながらも手紙の取次や室内外の雑用をこなします。彼女たちには愛らしい名前が付けられ、ある内親王の元では「をかしき・やさしき・ちひさき・をさなき・めでたき」などと呼ばれていました。
長保元年(999)に彰子が12歳で一条天皇の元に入内した時には、美しい容姿のえりすぐりの女童6人が、彰子の妹妍子が東宮の居貞(おきさだ)親王のちの三条天皇に入内した時にも、4人の選び抜かれた女童が従いました。
“昔の后は女童などはお使いにならなかったが、今ではさまざまに使われている。やどりぎ・やすらひなどと言う美しい名の少し大きめの女童は、髪も丈長く容貌も美しい”
『栄花物語』には上記のように書かれています。女童にとっても内裏や上流貴族に仕えるのは、行儀作法や教養を身に付け人との接し方なども学べて自分を高めるのに役立ちました。
愛らしい子には美しい衣装を
3月の下旬、光源氏が熱病平癒の祈祷のために訪れた北山の僧都の館で、初めて若紫を見出す印象的な場面。傍去らずの惟光と共に垣間見た風情あり気な小柴垣の内に、藤壺中宮にそっくりな面差しの少女を発見します。その時の若紫の衣装は白の袿(うちき)の上に着馴れて体に馴染んだ山吹色の衵(あこめ)を着ていた、と書かれています(『源氏物語』)。 衵とは単衣の上に着る大袖の着物で、童女の場合はくるぶしまでの対丈(ついたけ)で、その下に濃色(こきいろ/濃い紫色)の袴を付けます。これが一般的な童女の装いですが、女君に使える女童の場合は儀式に着用する正装がありました。
それは汗杉(かざみ)と呼ばれる着物で、衵の上に重ねるものです。両脇を縫わずに裾を長く引き、豪華な織物で仕立てられました。書物にも〝身丈は前後同じ寸法で、一丈二尺(約4.4メートル)〟とありますから相当長い裾を引いたようです。
袴着の儀式
7歳ぐらいになれば女童として出仕する少女たちですが、その前に済ませておかねばならない儀式があります。それが「袴着(はかまぎ/ちゃっこ)」の儀式です。 平安時代の貴族たちは男女ともに日常的に袴を着用していましたが、それを初めて着ける儀式で、男児・女児ともに3歳から7歳ぐらいの間に行われました。大人の女性は長袴を着けますが、子供の間は男性と同じく足首までの長さのものです。
「袴着」は、まず陰陽師にその子の誕生日時を基に、吉日吉時を占わせるところから始まります。藤原教通の長女生子と次女真子は、同時にこの目出度い儀式を行うことになりました。ところが2人の誕生日を記した書類が焼けてしまい、詳しい日時がわかりません。困った外祖父の藤原公任は藤原実資がこまめで几帳面なのを思い出し、ひょっとしたらと思って問い合わせます。果たして実資が2人の誕生を日記に書き残していたので、それを基に「袴着」の日は寛仁2年(1018)11月9日と決まります。
子供のお披露目として盛大に行う袴着
子供の成長の節目としての袴着ですが、「この年まで無事に育ちました」としてのお披露目の意味もあったので、子供の儀式にしては盛大に行われます。生子と真子姉妹の時も祖父である道長の邸宅で、道綱・実資・斉信(ただのぶ)など多くの者が列席します。出産直後の儀式は母方の実家で行われましたが、袴着の場合は父方親族の家で行われるのが普通でした。袴の上に着ける袿や直衣(のうし)は必ず親族の高位の者が贈り、大臣の子供なら中宮や女院から贈られました。
儀式のハイライトは、高位にある者や一族の中の主だった者・長寿者が袴を身に付けた子供の腰紐を結ぶ場面で、この役を務めるのを「腰結(こしゆい)」と呼びます。皇子・皇女の場合は天皇自らが務めることが多かったのです。生子の腰結は公任が、真子は頼道が務めました。袴着は夜間に行われることが多く、腰結が済めば管弦の演奏・宴会となります。
おわりに
袴着の儀式は列席者に配られる禄(祝儀)も豪華なもので、生子と真子の袴着では父親の教通から道長へ琴・和琴・笙と馬三頭、頼道には高名な書家の書と馬一頭が贈られます。また、道長から道綱・実資・斉信の3人にそれぞれ馬一頭が、その他の列席者やその随身にも豪華な引き出物が贈られました。儀式の途中では太皇太后彰子・皇太后妍子・中宮威子から、2人の子供に装束一式が贈られて来て華やかにお披露目されます。
【主な参考文献】
- 鳥居本幸代『紫式部と清少納言が語る平安女子のくらし』春秋社/2023年
- 繁田信一『源氏物語を楽しむための王朝貴族入門』吉川弘文館/2023年
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