大坂夏の陣後、次々と捕らえられ、非業の死を遂げた豊臣方の武将
- 2024/04/10
長宗我部盛親と真田信繁の家族
もともと土佐一国を支配していた長宗我部盛親は、豊臣方が勝利した場合、再び土佐一国を与えられる約束で豊臣方に与した。しかし、豊臣方は負けたので、約束は反故となり逃亡した。5月7日に戦場から脱出した盛親は、11日に山城国八幡(京都府八幡市)で捕縛された(『駿府記』)。盛親を捕らえたのは、蜂須賀至鎮の従者だったという。盛親はそのまま二条城に連行されると、大勢の見物人の目に晒されることになった。15日になると、盛親は六条河原で斬首され、首は三条河原で晒された。その後、盛親の首は蓮光寺(京都市下京区)に埋葬され、供養塔が建てられたのである。
ところで、徳川家康は紀州方面での落人の探索を執拗に行った。関ヶ原合戦後、真田信繁が九度山(和歌山県九度山町)に蟄居していたので、関係者が逃亡していないかを恐れてのことだろう。
案の定、信繁の妻子と付き従った侍の3人は、紀伊国伊都郡で浅野長晟の配下の者によって捕らえられた(『浅野家旧記』など)。捕縛された信繁の妻は、すぐに幕府に差し出された。その後、詳しく取り調べると、信繁の妻子は黄金57枚、豊臣秀頼から与えられた脇差などを所持していたという。
このとき、大野治長に仕えていた北村善太夫も捕縛された。徳川方は逃亡した面々がのちに反旗を翻すことを恐れ、執拗に落人狩りを行った。それは、聖域とされた寺社も例外ではなかった。ただし、信繁の妻が、その後どのような扱いになったのかは不明である。
細川興秋の最期と火炙りにされた大野道犬
豊臣方に与した大名としては、細川興秋がいる。興秋は忠興の次男だったが、慶長10年(1605)10月に江戸へ人質として向かう途中、にわかに逃亡し牢人となった人物である(『細川家記』)。興秋は忠興の後継者になることができなかったので、不満に思い出奔したといわれている。その後の興秋の動向は不明だが、大坂の陣とともに豊臣方に与した。豊臣方の敗戦後、興秋は伏見(京都市伏見区)に潜伏していたが、やがて捕らえられた。家康は興秋の罪は重いが、父の忠興の多年にわたる功績に免じて、その罪を許そうとした。にもかかわらず、忠興は興秋に切腹を申し付けた。興秋は、山城国東林院(京都市右京区)で自害して果てたのである。
5月23日大野治胤の弟で、道犬とも称された治胤も逃亡中に京都で身柄を拘束された(『孝亮宿禰日次記』)。捕らえられた日にちは、同月20日という説もあるが(『駿府記』)、実際は21日が正しいと考えられる(『譜牒余録』)。
治胤を捕らえた野間金三郎と小林田兵衛は、褒美として治胤の指していた大小の刀を与えられた。治胤の最大の罪状は、堺(大阪府堺市)を焼き討ちにしたことだった。そこで、幕府は堺奉行の長谷川藤廣に命じて、わざわざ堺で治胤を処刑したのである(『駿府記』)。
治胤の処刑の方法は、火あぶりの刑だった(「中山文書」)。堺を焼き払った見せしめということになろう。
方広寺の鐘銘を書いた文英清韓
捕らえられたのは、武将だけではなかった。方広寺鐘銘事件にかかわった文英清韓は、5月18日に板倉勝重の手の者に捕らえられた(『本光国師日記』)。大坂城で亡くなったように思われていたが、実は脱出に成功していたのである。なお、文英清韓は、方広寺の「国家安康」、「君臣豊楽」の鐘銘を考えた人物だった。 勝重は京都所司代という職務の関係上、京都で宿借りの手形(宿帳)の確認作業を行っていた。その際、文英清韓の伯父である允首座は、その書籍を譲り受けたと称して保管していた。允首座は東福寺(京都市東山区)へ移されるなどしたが、のちに文英清韓は身柄を拘束されたのである。
実は大坂夏の陣後、勝重の指示のもと、京都市中の町の者が手分けして、文英清韓の行方を探索していた。文英清韓が捕縛されると、匿った町人も身柄を拘束された。その後も文英清韓の書籍が五山の中にもないか捜索が続けられ、その手は武家伝奏を通じて朝廷にも及んだといわれている。
捕らえられた文英清韓は病に罹ったが、完治後には駿府(静岡市駿河区)に移されることになった。文英清韓は遠隔地への流罪を懸念していたようであるが、そこまでの厳しい処分にはならず、しばらく拘禁生活が続いた(「中尾文書」)。文英清韓が亡くなったのは、元和7年(1621)3月25日のことである(『時慶卿記』)。
このように主たる人物に止まったが、大坂の陣終結後も豊臣方の生き残った人々は、厳しく追及された。そして、彼らの多くは、死を命じられた。仮に、探索の手を逃れても、とうてい仕官が叶うはずもなく、厳しい生活を強いられたのである。
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