摂関期の武士たちは何をしていた? 有力貴族のもと都で暗躍
- 2024/08/06
紫式部や藤原道長が活躍した平安時代中期は貴族の時代ですが、平安京には武士もいて、存在感を示していました。武芸にたけた貴族、役目として軍事関係の官職に就く貴族だけではなく、自前の武士団を率い、それを維持する経済力を持った本格的な武士です。
摂関政治全盛期の平安京にはどんな武士がいて、いったい何をしていたのでしょうか。
摂関政治全盛期の平安京にはどんな武士がいて、いったい何をしていたのでしょうか。
【目次】
花山天皇出家 藤原道兼警護に源氏の武士
合戦や殺し合いははるか昔からあり、貴族の中にも軍事的な任務を果たす人々はいました。朝廷、国司が徴集した兵を率いて戦う軍事貴族です。代表的な例は坂上田村麻呂。平安時代初期、征夷大将軍に就き、蝦夷(えみし)を討伐しました。
平安時代前期には、藤原保則(ふじわら の やすのり)や文屋善友(ふんや の よしとも)、清原令望(よしもち)、小野春風といった武官が東北地方の蝦夷の反乱や九州の新羅海賊問題に対応。また、藤原利仁は盗賊退治などの伝承がある伝説的武将です。
平将門の乱 名門武家のルーツがそろう
どこまでが軍事貴族で、どこからが武士かは難しい問題ですが、平将門の乱(935~940年)の関係者は自前の武力で活動し、武士の形を持っていました。そして、国司に対抗して2度も罪人・反乱者の扱いを受けた経験のある藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)が朝廷の命令を受けて平将門を討ち、征東大将軍として京を出発した藤原忠文が将門討伐に間に合わなかったことは象徴的。軍事貴族から武士へと切り替わる大きな転換点とみることもできます。 藤原秀郷は名門武家・秀郷流藤原氏の祖。平将門も桓武平氏の祖・高望王(平高望)の孫であり、征東大将軍・藤原忠文の副将に就いた源経基は清和源氏の祖。源平や秀郷流藤原氏といった有力武家のルーツとなる人物がこの時期、そろって登場しています。
道長の父・兼家配下に多くの源氏武士
それから半世紀近く経った寛和2年(986)6月、花山天皇が出家して退位する事件でも武士の影が見えます。花山天皇に出家を促し、元慶寺に同行した藤原道兼(みちかね)は、ともに出家すると約束しながら土壇場で帰宅。花山天皇の出家は道兼の父・藤原兼家の策略だったのです。『大鏡』によると、道兼が本当に剃髪してしまわないよう、兼家は源氏武士を配置していました。道隆暗殺を企てた道兼の家人・源頼信
藤原道兼と源氏の関係を物語る逸話が『古事談』にあります。道兼の政治的ライバルは兄の藤原道隆。道兼に従う源頼信が物騒なことを公言します。頼信:「わが君(道兼)のため、道隆公を殺そうと思う。自分が剣を持って走り込んでいったら、誰が止められようか」
頼信の兄・源頼光があわてて制止し、その理由を示します。
頼光:「一つは、確実に道隆公を殺せるか非常に不確実だ。二つは、もし殺せたとしても、その悪事のため、道兼公が関白に就任できるか不確実だ。三つは、もし関白になれたとしても、主君を守り通せるか、これもまた不確実だ」
源頼光、頼信兄弟は源経基の孫。道兼死後は道長に仕えています。
安和の変で暗躍・源満仲「清和源氏」が台頭
清和源氏が武士らしくなるのは2代目・源満仲から。初代・源経基も藤原純友の乱の追討に関わっていますが、源経基の長男・満仲をはじめ、兄弟は所領経営による経済力を基に武士団を形成していきます。そして、源満仲は安和2年(969)の安和の変で藤原氏の政敵・源高明の失脚に関与。満仲三男の源頼信が藤原道隆暗殺を企てた逸話と合わせ、初期の清和源氏の武士は政敵への武力攻撃や謀略といった裏仕事を引き受け、藤原北家主流との関係を深めていったことがうかがえます。源頼光 財力で道長を支えた側近
源満仲の長男・頼光は、酒吞童子斬りや鬼童丸、土蜘蛛の退治などの怪異伝説に登場しますが、実像は藤原道長の側近。長徳2年(996)の長徳の変では宮中警備に緊急動員されており、この頃から道長に従ったようです。永延2年(988)9月には、道長の父・兼家に新築祝いの馬30頭を贈り、長和5年(1016)7月の道長邸焼失時の見舞いや2年後の再建祝いの贈り物は京の人々を驚かせるほどで、受領(地方官)歴任による財力もありました。
源頼信「道長四天王」の一人
源頼光の弟・頼信は満仲の三男。「道長四天王」の一人に数えられる藤原道長配下の有力武将です。道長四天王はほかに平維衡(これひら)、平致頼(むねより)、藤原保昌といった面々が名を連ねます。平維衡は平貞盛の四男、平致頼は貞盛の叔父・平良兼の孫、藤原保昌は藤原南家出身。彼らは武士であり、貴族。自前の武士団を率いる一方で中級貴族らしい官職を得ており、武士と貴族の両面の姿を持つことは何ら矛盾しません。「秀郷流藤原氏」名門武家を多数輩出
秀郷流藤原氏の祖・藤原秀郷は京で活動した記録はありませんが、天暦元年(947)、源高明に平将門の残党の動きを報告しています。そして、秀郷の子・藤原千晴は源高明の側近として安和の変で隠岐に流罪。源高明を追い落とした藤原氏に源満仲ら清和源氏の武士が従っていたように、源高明も藤原秀郷と関係を持ち、その子・千晴を従えていました。上級貴族の軍事面を支える役割を負っていた平安京の武士の姿が想像できます。藤原文行 道長の庇護で捕縛を逃れる
藤原千晴の流罪後の消息は不明ですが、千晴の弟・千常の子孫は細々と存続しています。藤原実資の日記『小右記』によると、千常の子・藤原文脩(ふみなが)は永延2年(988)10月、鎮守府将軍に就いており、藤原兼家との主従関係があったようです。また、藤原道長の日記『御堂関白記』によると、文脩の子・藤原文行や文行の甥・藤原頼行が道長に従っていました。
寛弘3年(1006)6月、法住寺に参詣した藤原文行は、どういうわけか平正輔との口論から腕ずくのけんかに発展。逮捕されそうになったので逃げ出し、追っ手の検非違使に矢を射かけます。文行は道長のもとに駆け込みますが、検非違使への武力行使は事実なので身柄は引き渡されることになります。縄で縛られて連行されるべきところ、道長の指示で文行は馬に乗って出頭。数日後、処分は受けたものの拘禁は解かれました。
また、寛弘4年(1007)閏5月、道長が金峯山参詣の準備を始めた際、従った側近の中に藤原頼行の名があります。
藤原諸任 平維茂と合戦で敗死
また、系図には見られない人物ですが、藤原秀郷の孫という諸任(もろとう)が『今昔物語集』に登場します。陸奥で平維茂(これもち)との合戦に敗れて討ち死に。物語では、陸奥守・藤原実方の客死が戦いのきっかけとなりますが、実方の死は長徳4年(998)12月。摂関政治の全盛期、地方では武士が生死をかけて勢力争いを繰り広げていたのです。平正輔とけんかした藤原文行といい、平維茂に討ち取られた藤原諸任といい、秀郷流藤原氏の武士は平貞盛の子孫と敵対関係にあったようです。
平貞盛は都で活動「桓武平氏」も着実に浸透
清和源氏と並ぶ名門武家といえば桓武平氏。平安時代中期、平将門の叔父の子孫が関東に根を張る一方、京では将門の従兄弟・平貞盛の系統が活動します。平貞盛は鎮守府将軍に就いて「平将軍」と呼ばれ、貴族としても従四位下まで位階を進めました。『今昔物語集』勇猛で残忍?平貞盛の逸話
『今昔物語集』には平貞盛の逸話がいくつかあります。「強盗に殺されるとの占いが出た」と言って閉じこもる法師の邸宅に宿泊し、侵入してきた10人ほどの強盗団をやっつけたという逸話や、矢傷でできた腫れ物に効く薬として、自分の子の妻から胎児の肝臓を取り出すことを要求したり、口封じのために医師の殺害を命じたりする逸話です。事実とは思えない話もありますが、平貞盛は残忍ながらも豪胆な武士らしい人物と捉えられていたのです。藤原伊周の配下の武士 平致頼、致光
平良兼(平貞盛の叔父)の孫・平致頼は藤原伊周と謀議し、藤原道長暗殺を計画したという噂が寛弘4年(1007)に流れます。噂の真偽はともかく、伊周配下の有力武士だったようです。弟・平致光も藤原伊周が失脚した長徳の変で家宅捜索を受けた伊周側近でした。平致頼は、同族の平維衡と伊勢で合戦して処罰を受けていますが、一方で、維衡とともに「道長四天王」に名を連ねます。致頼は藤原伊周の配下から道長配下へ転身したのです。
道長死去翌年に平忠常の乱 源氏の関東進出
藤原道長の晩年から死後にかけ、武士の力がクローズアップされる戦乱が勃発します。寛仁3年(1019)の刀伊(とい)の入寇では九州の武士が活躍し、道長死去の翌年、長元元年(1028)には関東で平忠常の乱が起き、この戦乱をきっかけに清和源氏と坂東武士の結び付きが強まります。刀伊の入寇で活躍した九州武士と桓武平氏
刀伊の入寇は中国東北部の女真族の海賊が対馬、壱岐や九州沿岸を襲った戦乱で、海賊撃退の指揮を執ったのは藤原隆家でした。藤原道長の政敵・藤原伊周の弟で、このとき、大宰権帥に就いていた貴族です。 隆家の統率力も大きいのですが、実働部隊は九州武士団。また、藤原隆家に従って活躍した平致行は伊周の側近・平致光と同一人物とみられ、桓武平氏の流れをくむ武士の中に九州に進出していた者もいたのです。
平忠常降伏させた源頼信と結び付く坂東武士
平忠常の乱は長元元年(1028)に起きた上総、下総、安房での大規模な反乱です。平忠常は平将門の叔父・平良文の子孫で、追討に派遣された平直方は平貞盛の曽孫。どちらも桓武平氏の武士です。平直方は関白・藤原頼通の家臣でもあり、頼通の強い後押しもあって平忠常追討の任務を与えられました。しかし、平直方は乱を鎮圧できず解任。代わって源頼信が派遣され、平忠常は長元4年(1031)に降伏します。源頼信は、この戦乱をきっかけに関東の武士と主従関係を築きます。頼信の長男・源頼義が前九年合戦で、頼義の長男・源義家が後三年合戦で坂東武士を従えて戦います。
おわりに
藤原道長の配下には源氏や平氏、秀郷流藤原氏のそれぞれの有力武士が従っていました。その前後も、政界トップやその地位を狙うほどの大物貴族には有力武士団が臣従。要人警護から治安維持、時に政敵への攻撃、謀略まで武士は有力貴族の手足となって暗躍していたのです。有力貴族の配下で武士は勢力を拡大し、貴族は武士の力を利用して政敵との争いを勝ち抜こうとしたのです。雅な文化が花を咲かせ、平和なイメージのある時代ですが、都でも地方でも武士の活動は本格化していたのです。
【主な参考文献】
- 元木泰雄『源満仲・頼光』(ミネルヴァ書房、2004年)
- 野口実『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館、2001年)
- 関幸彦『武士の誕生』(日本放送出版協会、1999年)
- 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
- 武石彰夫訳『今昔物語集本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社、2016年)講談社学術文庫
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