「この姫君こそ后がね」 女児誕生を喜ぶ上流貴族たちの朝廷戦略

『栄花物語』に描かれている上流貴族(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『栄花物語』に描かれている上流貴族(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 室町・鎌倉・戦国・江戸、いや現代でもでしょうか。“家” の跡継ぎとして男児の誕生を待ちわびる風潮は強いものです。

 特に昔の大名家や将軍家・天皇家では、跡継ぎを造り、家を絶やさぬことが当主の重要な役目とされ、正妻に男児が生まれなければ何人もの側室を置いて子づくりに励まねばなりません。しかし王朝時代の上流貴族の家では少し事情が違ったようです。

「この姫君こそ将来の后がね」

 永延2年(988)、藤原道長と正妻倫子の間に誕生したのは愛らしい女の子。この子の誕生に祖父の兼家を始め、一家が大喜びする様子は『栄花物語』にも書かれています。

「倫子は安産で一家にとって初めての姫君を出産、その麗しさに大殿兼家も将来の后がねと殊の外の喜びよう」

 女児誕生がなぜこれほど喜ばれたのか?まさに「将来の后がね(きさきがね)」お后候補なんですね。帝の后に我が娘を送り込み、男御子を生ませ、自分は将来の天皇の外祖父として宮廷政治に大きな影響力を振るう…。これが当時の力を持った上流貴族の権力の握り方です。道長もしっかりこの方法を踏襲します。

 倫子の産んだ女の子は「彰子(あきこ)」と名付けられ、見事に道長の思惑通りに一条天皇の皇后となり、一条天皇の第二皇子・敦成親王(あつひらしんのう。のちの後一条天皇)を産みました。

※参考:藤原北家九条流の略系図
※参考:藤原北家九条流の略系図

 しかしそれまでの道のりは長かったのです。そもそも道長自身が藤原北家藤原兼家の五男坊、兄たちも当然天皇家外戚の座を狙っており、特に正妻時姫腹の有力な長男道隆・三男道兼は強力なライバルです。すでに道隆には4人の、道兼には1人の娘がおり、道長は出遅れました。

一族同士で天皇の寵を競い合う

 一条天皇の後宮には道隆の長女定子・道兼の長女尊子(そんし)・道長の長女彰子と3人の従妹同士の姫君が入内します。これだけでは心もとない、と冷泉天皇の女御となった兼家の長女超子(ちょうし)が生んだ居貞親王(おきさだしんのう。のちの三条天皇)に、道隆は次女原子(げんし)を、道長も次女妍子(けんし)を入内させます。

 さらには道隆は冷泉天皇の第四皇子・敦道親王(あつみち)に三女を、道長は三条天皇の第一皇子敦明(あつあきら)親王に三女寛子(かんし)を、9歳も年下の第二皇子敦成(あつひら)親王に四女威子(いし)を、第三皇子敦良(あつなが)親王後の後朱雀天皇に六女嬉子(きし)を入内させます。

 従妹だの姉妹だのが入り混じった複雑さで “そこまでやるか” って話ですが、これもせっせと子作りに励み、多くの手駒となる女児を持ち、何人もの娘を入内させるだけの財力を得たからです。

時には無理筋を

 道長の長男頼通と正妻隆姫の間にもなかなか子供が生まれず、頼通は長和5年(1016)6月に近江国三井寺へ、隆姫は寛仁元年(1017)10月に大和国長谷寺へ女児懐妊祈願へ出かけています。しかし2人の間にはとうとう男の子も女の子も生まれませんでした。

 このままではせっかく手繰り寄せた我が家の権力の座を次世代には失ってしまうと、堪りかねた道長は頼通に三条天皇の皇女禔子(しし)内親王との縁談を持ってきます。その時の道長の言葉が『栄花物語』に残っています。

道長:「男子たるもの一人の妻だけを守り通して良いものか、お前は馬鹿正直と言うものだ。内親王を迎えるのは血筋の良い女の子をもうけるためだ、この内親王はきっと子供を産んでくださるぞ」

 内親王を妻に迎えれば隆姫は正妻の座を譲らざるを得ず、隆姫を思いやって頼通は涙ぐんだとか…。結局この縁談は頼通が病に倒れたため、沙汰止みとなります。

 『源氏物語』の主人公・光源氏も、晩年になって兄・朱雀院の頼みを断り切れず、皇女・女三宮を正妻に迎えたため、最愛の妻・紫の上はその下の座に下がらざるを得ませんでした。紫の上は兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)と言う血筋こそ高貴なものの、権力も財力も非力な父親と、宮の正妻でもない按察使大納言の娘を母に持ちました。

 最高の女性であり、長い間源氏の最愛の妻でありましたが、ついに源氏の正妻にはなれませんでした。これには確かな後ろ盾も無い紫の上を正妻にしてしまっては、正妻としての対面や格式を保つのに却って苦労をさせるかもしれぬとの源氏の思いやりでもありました。

 しかし年下の降ってわいたような源氏の正妻・女三宮が源氏の邸宅・六条院へやって来た時、自分の方が挨拶に出向かねばならなかった紫の上の胸の内は苦しいものがあったことでしょう。今までは源氏の最愛の女性と回りも認めていればこそ、今頃になってのこの扱いはなおさらです。「心中お察しします」との他人の言葉も紫の上を苦しめるだけでした。

男の勝手な願い

 しかし一旦女児が生まれてしまうと、今度は家を継がせる男児が必要になります。彰子や頼通の弟である教通の妻・藤原公任の娘は、最初に目出度く女の子・生子(せいし。のちの朱雀天皇の女御)を生みます。しかし2番目の子供も女の子でした。すると、教通は最初の子はあれほど女児誕生を望んでいたのに、2番目は望んでいた男児ではなかったため、ひどくがっかりして妻に冷たく当たります。

 「姫君はもうよい、次は跡継ぎの男児を」といった感じでしょうか。

 上流貴族は1番目には女児誕生を願いましたが、血筋を絶やさぬことが第一の天皇家は違いました。なによりも皇位を継承できる男児が望まれます。道長の長女彰子は2人の親王を出産して道長を喜ばせますが、彰子の妹妍子(けんし)は、三条天皇の皇后となりながら、禎子内親王(ていし ないしんのう)1人しか生むことが出来ませんでした。これには道長はたいそう落胆し、不機嫌になってしまいました。

おわりに

 娘を入内させられるだけの位と財力をもった貴族は限られています。入内の行列・宮中での調度品や女君や女房の装束・帝を引き付ける華やかな遊びの費用、金はいくらでもかかります。いきおい同族の中での后争いが生まれました。


【主な参考文献】
  • 鳥居本幸代『紫式部と清少納言が語る平安女子のくらし』(春秋社/2023年)
  • 福家俊幸『紫式部女房たちの宮廷生活』(平凡社/2023年)
  • 倉本一宏『平安貴族とは何か』(NHK出版/2023年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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