「藤原保輔」歴史に刻まれた盗賊 貴族から盗賊への転落人生と衝撃の末路とは

袴垂保輔(『袴垂保輔鬼童丸術競図』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
袴垂保輔(『袴垂保輔鬼童丸術競図』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 「盗賊」と聞いてあなたはどのような人物を思い浮かべますか? 平安時代の京都にも、貴族を震撼させる盗賊一味がのさばっていました。大河ドラマ『光る君へ』にも直秀や散楽一座が登場しましたね。実は彼らには、モデルとなった人物がいました。貴族でありながらも盗賊となった藤原保輔(ふじわら の やすすけ)です。

 保輔は上級貴族の一族に生まれながら、順調に官途を歩む人物でした。しかしある事件から運命が一転して追われる身となり、盗賊行為に身をやつすこととなります。

 今回は藤原保輔の生涯、人物像をみていきます。

上級貴族の一族に生まれる

 保輔は、藤原致忠(むねただ)の四男として生を受けました。母は元明親王の娘。生年は不詳ですが、長兄・藤原保昌が天徳2年(958)生まれなので、おそらくはそれ以降と推察されます。

 長兄・保昌のほかに、次兄・斉光、三兄・惟光もいました。母親違いの可能性を含めても、おそらくは3〜10歳前後は下だと考えられるので、保輔の誕生年は天暦元年(961)~安和元年(968)ごろではないでしょうか。

 保輔が生まれたのは,藤原南家(家祖は藤原巨勢麻呂)の流れを汲む家でした。当時の藤原氏では,北家の勢いが強く、決して主流派とは遠い存在です。とはいえ、祖父・藤原元方は正三位大納言となり、公卿に連なっていますし、父・致忠も従四位下左京大夫まで出世しています。ですから、保輔は恵まれた側にいたことは確かなようです。

武官として出世街道を歩む

 加冠(元服)を果たした保輔は、官位に就くこととなります。

 官位は、太政官や神祇官などの官職(役職)と、30階級ある位階(階級)によって構成されていました。また、貴族の子孫は父祖の官位によって、21歳で官位がもらえることが約束されていました。この制度を蔭位の制と言います。

序列品位位階
1一品正一位
2一品従一位
3二品正二位
4二品従二位
5三品正三位
6三品従三位
7四品正四位上
8四品正四位下
9従四位上
10従四位下
※参考:律令制における位階
(序列10以降は記載省略)

 保輔の父・致忠は従四位下でした。蔭位の制では、嫡子は従五位下〜従八位上。庶子(嫡子以外の子のこと)は正六位上〜従八位下が与えられる決まりでした。保輔が嫡妻か妾(めかけ)の所生かは不明ですが、兄・保昌の存在からしておそらくは庶子であったと推察されます。

 詳細な官歴は不明ですが、保輔は最初に武官である右兵衛尉に叙任されたようです。兵衛府は皇族の護衛を担当する部署でした。右兵衛尉は、位階では正七位上〜従七位上に相当しました。尉は上から「カミ→スケ→ジョウ→サカン」の三番目に当たる地位ですから、決して粗略な扱いをされていたわけでないようです。

 その後、保輔は右馬助(うまのすけ)に叙任されます。これは朝廷の軍馬を管理する馬寮の次官でした。位階では正六位下相当の官職であり、一名だけの任命ですので、順調に官途を歩んでいたことがうかがえます。

 ここまで見てわかりますが、保輔は武官として官途を歩んでいます。彼が武芸に長けたことが容易に想像できる官暦です。

転落の始まりと盗賊行為

 やがて保輔は左京亮に叙任されます。これは京の警察権だけでなく、行政や司法にも携わる部署の次官です。官位は従五位下に相当しており、正式に貴族と呼ばれる身分となっていたことが窺えます。

 中央政界で順調に歩みを進めていた保輔ですが、寛和元年(985)に傷害事件を起こします。

 左大臣・源雅信の邸宅・土御門殿で行われた大饗(宴会)の場で、貴族・藤原季孝に暴行して傷を負わせており、さらには兄・藤原斉明(斉光か?)と共に大江匡衡に対して刃傷事件を決行。しかも大江匡衡はこの時に左手の指を切断するほどの重傷を負っています。

 朝廷はすぐさま追捕の命令を発出。これ以降、保輔は逃亡生活を続けることになるのです。なお、兄・斉明は近江国に逃亡したものの同地で殺害されています。この頃より暮らしに困窮したのか、保輔は貴族の地位にありながら、京で盗賊行為を働いていたとされます。

 平安時代の京では、盗賊たちがのさばり、貴族の邸宅に押し入って財物を略奪していました。盗賊の規模は300人という事例もあり、30人ほどの検非違使では追捕に限界があったと考えられます。

 保輔もその一員として活動したと伝わりますが、真相は定かではありません。しかし気性が激しかったのは間違いないようです。

罪を重ねた盗賊の末路

 保輔は追われる立場となってからも、罪を重ねていきました。

 兄・斉光を追捕した検非違使(都の治安維持にあたる役人)の源忠良を弓矢で攻撃、また永延2年(988)閏5月には、藤原景斉や茜是茂らの屋敷に押し入って強盗を働き、さらには検非違使で左衛門尉・平維時(北条時政の曽祖父にあたる人物)の暗殺も計画。本格的に検非違使を敵に回しているのです。

 保輔を追捕することができない検非違使は、保輔の父・致忠を捕縛して連行、監禁して保輔に対して牽制しています。これに危機感を抱いた保輔は北花園寺で出家、剃髪して潜伏しますが、保輔の友人・藤原忠延が密告したことで捕えられてしまいます。

 保輔は捕縛の際、刀で腹を傷つけ、腸を引きずり出して自害を図るものの、死にきれなかったといいます。結局は翌日、その傷によって獄中で息を引き取りました。なお、保輔の自害は日本最古の切腹の事例とされ、以降、武士の自害の手段として定着していったといいます。

おわりに:後世の創作のもととなった保輔

 保輔は、鎌倉初期の説話集『続古事談』の中で、

「袴垂保輔」
「元方の民部卿の孫、致忠朝臣ノ子也」

と書かれているように、平安時代末期の説話『今昔物語集』に登場する伝説の盗賊・袴垂(はかまだれ)と同一人物として描かれています。

 『宇治拾遺物語』では、保輔は自分の屋敷の蔵の床下に穴を掘っていたと記述。商人をそこに読んでは穴に突き落として殺し、物を奪っていたとされています。

 また、系図集の一つである『尊卑文脈』では、保輔を以下のように記述していました。

「強盗の張本、本朝第一の武略、追討宣旨を蒙る事十五度」

 これらが本当に藤原保輔の人物像を表しているかについては定かではありません。ただ、保輔は武官出身で武術の心得も十分であったことは想像に難くないですし、群盗(大規模な盗賊)の中においても、特に危険視されていたのでしょう。

 しかし、保輔が盗賊行為を行なった理由が気になります。五位以上の貴族となれば、暮らし向きに不自由があるとは考えにくいです。金銭的な困窮よりも、生命的な危機感に関する問題があったと見れないこともないかも…。

 発端は傷害と刃傷ですが、これには当時の政治情勢が絡んでいる可能性もあります。寛和2年(986)、右大臣・藤原兼家は奸計を用いて花山天皇を退位に追い込みました。その上で自らの孫である懐仁親王を一条天皇として即位させています。おそらくはこの前後に朝廷内部で、貴族間において政治闘争が展開されたことは間違いありません。

 保輔と兄の斉明が行動に出たのは、貴族官の政治的対立が絡んでいる可能性があることは言及しておきたいところです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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