毛利氏の婚姻戦略 ~毛利隆元と尾崎局の結婚の事例から見る~

毛利隆元と尾崎局の結婚

 戦国時代の結婚は自由恋愛ではなく、同盟関係を強固にするという政略によるものだった。毛利氏が重要視した存在としては、周防国の戦国大名大内氏がいる。大内氏は平安時代末期以来の名族であり、その先祖は百済聖明王の第三皇子・琳聖太子であると称していた(これは疑わしい)。大内氏は周防・長門を中心に版図を広げていたので、毛利氏が無視できるわけがなかった。

 天文6年(1537)12月、毛利元就の長男・隆元は、大内義隆のもとに人質として送られた。いうまでもなく、毛利・大内両氏の同盟の証である。隆元は山口(山口市)で元服すると、義隆の「隆」の字を拝領し、隆元と名乗ったのである(「毛利家文書」)。

毛利隆元像(常栄寺蔵、出典:wikipedia)
毛利隆元像(常栄寺蔵、出典:wikipedia)

 隆元は大永3年(1523)の生まれなので、15歳のときだった。わざわざ大内氏のもとで元服式を行ったということは、その配下に収まったことを意味する。そして、婚姻先ですら、大内氏の意向に沿うことになった。

 隆元が妻を娶ったのは、天文18年(1549)のことである。相手は義隆の養女であり、そもそもは義隆の重臣・内藤興盛(長門国守護代)の娘だった。

 義隆には女子がいなかったので、わざわざ興盛の娘を養女としたうえで、隆元と結婚させたのである。当時、当人に娘がいない場合は、あえて養女を他家から迎え、嫁がせることも珍しくなかった。この場合、義隆は重臣の娘を養女にしたのだから、毛利氏を重く見ていたと考えられる。

※参考:毛利隆元と尾崎局の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)
※参考:毛利隆元と尾崎局の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)

重要だった尾崎局の存在

 隆元の妻は、毛利氏の居城の吉田郡山城(広島県安芸高田市)の尾崎の曲輪に夫と住んでいたので、「尾崎局」と称された。いずれにしても、内藤氏は当時の毛利氏と比較すると、はるかに格上の存在であり、重んぜられたことはいうまでもない。

 尾崎局は毛利氏にとって、欠かすことができない重要な存在だった。大内氏から妻を迎えた理由は、もちろん理由があったのである。それらの事例については、「毛利家文書」などで見ることにしよう。

 天文19年(1550)、元就は命令に従わない井上一族を討伐した。このとき有効に作用したのは、御屋形様=大内義隆の援助である。当時、元就の権力は十分に成熟しておらず、国内の反乱分子を討つには、大内氏の力を必要とした(「毛利家文書」)。

 元就の井上一族の罪状書を見ると、その端裏書に尾崎局の名前が記されている。また、史料の結びには、義隆の重臣・内藤興盛への口添えを依頼する文言があった。つまり、元就は井上一族を討つべく、尾崎局を通して、実父の興盛そして養父の義隆へ協力の依頼を行ったのである。

 仮に、婚姻関係を結んでいなければ、大内氏も内藤氏も助けの手を差し伸べなかったかもしれない。しかし、毛利氏は2人と婚姻関係を結んでいたがゆえに、助けを得られたと考えられる。

頭が上がらなかった元就・隆元

 元就がどれほど尾崎局を尊重していたかは、別の事例からもうかがえる(以下、「毛利家文書」)。元就は、義隆の娘を隆元が娶ったことを「大変なことである」と受け止めていた。そして、隆元を「うつけ者」としたうえで、尾崎局に対しては「隆元に遠慮も思案」も入らないとまで述べている。驚くような言葉だ。

 何より元就は、義隆の出陣命令に際して、ふさわしい軍勢を動員しなくては、義隆からどのように思われるかを心配していた。のちに元就は大大名に出世するが、当時は義隆を恐れていたのである。

 もちろん、義隆からすれば、毛利氏を貴重な同盟者として考えていたので、婚姻関係を通した同盟を結んだのであろう。しかし、当の毛利氏からすれば、過分なことと受け止めていたように推測される。

 尾崎局が果たした役割は、何も外交的な側面ばかりではない。隆元の弟・吉川元春が九州に出陣した際には、その労をねぎらうなど、一族への配慮も怠らなかった(「吉川家文書」)。
そして、我が子である輝元への教育も熱心だったことがうかがえる(「毛利家文書」)。

 尾崎局は単に外交面で活躍したに止まらず、毛利一族の紐帯を強める場面でも力を発揮したのである。尾崎局という精神的な支柱を得た毛利氏は、徐々に発展を遂げることになったのである。

毛利家の発展に寄与した尾崎局

 この間、尾崎局は隆元との間に、輝元と津和野局(吉見広頼の妻)をもうけた。隆元は側室を持たなかったといわれており、2人の子しかいなかった。隆元が側室を持たなかったのは、尾崎局への遠慮であろうか。

 永禄6年(1563)に隆元が急死すると、あとを継いだ輝元の後見人として、後ろ盾となった元就も元亀2年(1571)に没した。元就が亡くなった後、尾崎局は隆元の2人の弟の小早川隆景と吉川元春に対して、輝元への支援を依頼した(「毛利家文書」)。当時、夫の亡きあとに、後家が政治を動かしていたのは、ほかにも例がある(今川氏親の妻・寿桂尼など)。

 このように見ると、かつて一国人領主に過ぎなかった毛利氏が発展した理由の一つには、尾崎局の存在があったといっても過言ではない。隆元は自他ともに認めるほど、才覚=能力のない人間であったと伝わっている。その夫を支える妻として、尾崎局は適任だったのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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