一風変わった平戸の殿様・松浦静山と『甲子夜話』が面白い!

松浦静山の肖像(出典:wikipedia)
松浦静山の肖像(出典:wikipedia)
 江戸中期から後期にかけて生きた松浦静山(まつら せいざん、1760~1841)は、平戸藩(現在の長崎県平戸市にあった藩)の第9代藩主である。側室の子でありながら、藩主となり、苦境にあえいでいた藩の財政を立て直し、藩校までも作ったほどの優れた人物だ。ところがわずか47歳で家督を譲り、その後は別の意味で活躍した。

 今回は、ちょっと風変わりなご老侯・松浦静山と彼が残した随筆の大作『甲子夜話(かっしやわ)』について解説しよう。

平戸藩藩主・松浦清

 松浦静山は、本名を松浦清(きよし)という。宝暦10年(1760)、平戸藩8代藩主・松浦政信の長男として生まれるが、母が側室だったため、庶子扱いになっていた。そのまま何もなければ清は、平戸藩を継ぐことはなかったのだが…。

清、藩主になる

 清の父・政信が明和8年(1771)に早世すると、長男である清は祖父の誠信の養嗣子となる。そして、父の死から4年後の安永4年(1775)には、祖父の隠居に伴って家督を相続した。清は15歳という若さであった。

藩の窮乏に立ち上がる

 この頃の平戸藩は、他の藩と同じように困窮していた。清は、藩の財政を立て直すべく、改革を行う。経費削減、身分を問わず優秀な人材を登用する、組織再編と効率化などに務めたが、清が他の藩主と違ったのは、これらの改革方針と心構えを『財政法鑑』や『国用法典』として定めたことである。

 確かに、藩主の言葉を広く知らしめるためには、文書として示した方が簡単に、かつ正確に伝わるはずだ。このおかげもあってか、平戸藩の改革は順調に進んだようだ。

 藩政改革に手を付けて4年後には、維新館という藩校を立てているところをみれば、そのころには財政にも余裕が出ていたのではないだろうか。

幕府の横やりをかわす知恵と度胸

幕府:「維新とはどういうことだ!」

 藩校の維新館については、幕府から上記のように責められたそうだ。のちの明治維新からも分かるように、「維新」には「改革して新しくする」という意味がある。おそらく幕府転覆でももくろんでいるのではないかと疑われたのだろう。

 これに対し、清は次のように返したそうだ。

清:「維新とは、古代中国の詩集である『詩経』の中の一説に由来するものであり、全く他意はない」

 幕府は絶対と考えられていたこの時代、(おそらく)顔色一つ変えずに言い返せる肝の太さと度胸は、藩主としてだけでなく、1人の人物としても大変魅力的に感じる。

あっさり家督を譲る

 順調な藩政改革と度胸の良さ、そして人間的な魅力を持った清は、おそらく平戸藩藩主の中でも随一の人気者だったろう。しかし47歳というまさに男盛りのときに、清は家督を三男の熈に譲る。客観的にみるとあっさり家督を手放したように見えるが、その背景には清の葛藤があったようだ。

猟官運動に疲れ果て…

 清の改革に対する精力的な行動からも分かるように、彼はいち藩主だけで終わるつもりはなかったようだ。彼の野望、志は幕府の要職に就き、幕政に参加することだった。

 外様大名である平戸藩の藩主がおいそれと要職につけるわけはない。彼はわずかな機会をも無駄にしないような精力的な活動を続けた。

 江戸城へ登城したときは、出来るだけ多くの有力大名と顔を合わせ、接点を作ろうと、最後まで城内に居残っていた。忠義の心を見せようと、東叡山寛永寺や増上寺などの将軍墓所には、まめに参詣した。田沼意次が幕府の実権を握っていた時期には、しばしば田沼の屋敷に挨拶に行っていたそうだ。もちろん手ぶらではなく、しっかりと賄賂を持参して。

 時には、江戸での猟官運動を進めるために、病気を理由として国元へ帰らないというちょっとせこい技も使っていたという。そうまでして求めた役職だが、結局叶うことはなかった。

 後ほど紹介する『甲子夜話』の中で、清は隠居した理由に触れている。簡単に言ってしまうと、「猟官運動の疲労と失望、その一方で役職を得た者への羨望と嫉妬に苦しむ毎日。とうとう心身が衰弱し、体調を崩した」ということだ。

 自暴自棄になった平戸藩藩主は、英明な頭脳を持ちながらも、心の整理ができないまま、隠居を決意してしまったというのが、本当のところらしい。

 疲れ果てた末の隠居だったはずだが、元平戸藩藩主・松浦清はここからがすごい!

松浦静山、セカンドライフを謳歌する

 清は、隠居後の号を静山と改め、武芸と執筆活動に没頭する。ただ没頭するだけでなく、確実な成果を上げていく。

武芸と執筆活動に邁進

 当時はまだ幕末の動乱にも程遠く、ましてや戦国の世など忘れ去られた平和な時代。武士と言えど武芸に力を入れる者はそれほど多くなかっただろう。大名ならなおさらである。ところが静山、53歳にして心形刀流の達人と言われ、68歳で弓の日置流(へきりゅう)の免許を許され、剣術の田宮流に新陰術では免許皆伝、柔術に馬術、砲術まで修めているのである。

 なんとエネルギッシュなご老侯であろうか。その上、全278巻にも及ぶ『甲子夜話』をはじめ、『剣談』『日光道之記』など多くの著作や書画まで残している。現代に置き換えても、ここまで活動的なおじいちゃんは少ないだろう。

子孫繁栄にも貢献(?)

 ついでに言うと、静山はとても子だくさんである。17人の男子に16人の女子、合計33人もの子を授かっているが、そのうち20人(男子11人・女子9人)が隠居後に生まれた子だ。子孫を残すのが藩主の仕事の1つとはいえ、これだけの人数には驚くし、ほとんどの子が無事に育っているということにもびっくりだ。

 ちなみに、十一女の愛子は、大納言中山忠能(ただやす)に嫁いでいるが、その子・慶子は明治天皇の実母である。つまり、静山は明治天皇の祖父なのだ。なんだかわからないが、静山ってやっぱすごい気がする。

江戸の生活が生き生きと描かれている『甲子夜話』

 静山が著した中で最も有名なのが『甲子夜話』である。

 この本には、静山がつれづれに記した世の出来事や人物評、政治談に聞き書きの伝承や怪談などが書かれている。その内容は多岐にわたり、それぞれにとても興味深く面白い。今も『甲子夜話』や松浦静山を題材とした小説やドラマが生まれるのにも納得できる。

 ではほんの少し『甲子夜話』の世界を除いてみよう。

『甲子夜話』の世界

讃岐高松藩の若君が幼い頃のこと。藩邸の上空をさかさまになっている女性を見つけた。「これは天狗が女性をぶら下げて飛んでいる姿だ」というのである。実際に家来も女性の姿を目にしているので子供の嘘でも幻でもなさそうだ

 これは、おそらく静山が誰かから聞いた不思議話を記したものだと思われる。

 江戸の義賊として名高い鼠小僧の話も登場する。実は平戸藩でも鼠小僧と思しき泥棒に遭ったらしく、『甲子夜話』でも何度か取り上げている。静山は、鼠小僧について

「至って軽捷(みがる)にして、高所にても手指及べば即ち跳び上がり…人に疵つくることなく、一切器物の類を取らず、ただ金銀のみを取り去る」

と説明している。

 まさしくドラマや小説に出てくる鼠小僧そのものだ。残念ながら静山は、鼠小僧が義賊であったかどうかについては触れていない。

 静山は、忠臣蔵で有名な大石内蔵助についても書いている。が、結構な悪口が続く。「大石の輩」と侮蔑し、伏見の遊郭で豪遊したことも批判している。その他石田三成については「佐和山の一城主で終わる人物ではない」という評価をしていたり、米沢藩の窮乏を救った名君・上杉治憲を賞賛したりもしている。

 信長・秀吉・家康の性格を表した「ホトトギス」の川柳についても載っている。これは静山が詠んだものではないが、あの当時の人にとっても戦国の三英雄は別格だったということがわかる。

あの名言も静山の言葉だった!

 これは『甲子夜話』ではなく、『剣談』に載っているのだが、以下のような言葉がある。

「勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし」
『剣談』より

この意味を静山は、

「武道において、本来の道を尊重し、指導されてきた技術を守って戦えば、もし気力が充実していない状態でも勝つことはできる。精神的には準備が不十分でも勝てたことを不思議に感じるものだ。ところが本来の道を守らず、身に付けた技術の使い方を誤れば、負けるのは当たり前である」

と説明している。

 武道などやったことのない私だが、想像するに「勝った時はその理由をすべて解き明かすことは難しいが、負けるときは必ず理由がある。その理由を突き止めれば、いずれは勝てる」という意味だろう。

 この言葉、野村克也元監督の座右の銘として有名なのだが、その出典は松浦静山だった。

あとがき

 若くして、出世の道をあきらめた静山ではあったが、毎日あくせく働いている身から見ると、その後の人生はなんともうらやましい限りである。武道で心身を鍛え、幅広い交流の中から得た話や自身の思いを綴る生活を送る…。まさしく悠々自適のセカンドライフである。

 静山が文政4年(1821)から20年余りにわたって綴ってきた『甲子夜話』は、今や江戸の風俗や暮らしを知るための貴重な史料となっている。


【主な参考文献】
  • 氏家幹人『殿様と鼠小僧』(中央公論新社、1991年)
  • 松浦静山『甲子夜話』(ジャパンナレッジ)
  • 江戸人文研究会『江戸の人物事典』(廣済堂出版、2013年)

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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