戦国日本と仏教はイエズス会宣教師たちにどう映っていたのか?
- 2019/10/24
戦国時代、イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して布教活動を始めたのを皮切りに、以後日本各地でイエズス会によるキリスト教の布教が行われるようになりました。
当時、日本の宗教といえば神道・仏教が特権階級のみならず文字を読めない一般階層にまで浸透していたわけですが、宣教師たちはそのような日本の宗教環境をどう感じたのでしょうか。また、ヨーロッパから遠く離れたアジアの片隅の国家をどのように見たのでしょうか。
当時、日本の宗教といえば神道・仏教が特権階級のみならず文字を読めない一般階層にまで浸透していたわけですが、宣教師たちはそのような日本の宗教環境をどう感じたのでしょうか。また、ヨーロッパから遠く離れたアジアの片隅の国家をどのように見たのでしょうか。
日本をヨーロッパのミニチュアとして見た
現代の私たちの感覚からすれば、日本列島全体でひとつの国と捉えられますが、室町幕府の中央政権がほぼ機能せず、各地で群雄割拠していたような戦国時代に、現代と同じような感覚で「国家」と呼べるほどの政治体制があったといえるかどうかは疑問です。ただ、外からやってきたイエズス会の宣教師たちは戦国当時の日本を共通の一言語をもつひとつの国家とみなしたようです。
というのも、ヨーロッパでは962年から1806年に至るまでローマ教皇に認められたローマ皇帝を君主とする神聖ローマ帝国がありました。神聖ローマ帝国はローマといいつつ、実態はドイツ中心の国家ですが、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部を中心に存在していた国家です。
しかし時代が下るにつれて各地の諸侯(しょこう。一定の支配地と臣下をもった領主階級のこと。)がそれぞれに政治を行う封建社会になっていきます。諸侯は独立国家と同程度の支配力を持っていたのです。
日本も鎌倉時代から江戸時代まで封建制度の時代であったため、宣教師たちは当時のヨーロッパの社会システムと共通項を見出して当てはめやすかったものと思われます。
天皇・将軍・大名などの権力者をヨーロッパの定義に当てはめた
宣教師たちは、自分たちが親しんだヨーロッパの社会システムを通して、日本の権力者をヨーロッパの定義に当てはめました。たとえば、
- 大名=国王
- 将軍=皇帝
- 天皇=教皇
という感じです。
大名が国王というと、私たちからすれば妙な感じですが、宣教師たちはヨーロッパで強力になっていたフランスやイギリスのような国王になぞらえたのです。
たとえば、大内義隆は「当時の日本のもっとも有力な王」とフロイスに評されています。まあ、当時の守護大名は領地の小領主たちをまとめる存在だったので、王と言えなくもないかもしれませんね。
それに対して、当時はすでにほとんど名前だけの存在になっていた室町幕府の将軍を「皇帝」と考えました。これも実態はドイツの王に過ぎなくなって名前だけ立派になっていた神聖ローマ皇帝に似た印象を持ったのでしょう。そして興味深いのが、天皇を「教皇」に当てはめたことです。
政治自体はすでに天皇を中心とする貴族社会から武家社会へと移っていましたが、政治のトップである将軍を任命するのは天皇ですし、諸宗派の僧侶に僧位・僧官を与えるのも天皇です。
ローマ教皇のような「教会の権威」を持っており、皇帝たる将軍を任命する権限を持っていた(神聖ローマ皇帝は教皇に戴冠されて初めて皇帝を名乗れる)ことから、天皇を教皇のような存在と考えたのでしょう。今の感覚からすれば、天皇は英語で「Emperor(皇帝)」と呼ばれる存在なので変な感じです。
都の言葉を公用語とみなした
現代日本でも各地に方言があるように、戦国時代の日本も同様であった(むしろ今よりもきつかった)はずなのですが、宣教師たちは日本全国には唯一の言葉しかないと考えていたようです。彼らも元々は鹿児島から入って各地で布教してまわり、京に入ったので方言があることは知っていましたが、「日本の中枢である都で話されている言葉イコール公用語」とみなしたようです。容易ではなかった日本での布教活動
それでは、キリスト教を日本で布教しようという宣教師たちにとって、異教である仏教についてはどう感じていたのでしょうか。文字を読めない層にも仏教は浸透していた
宣教師たちは、「接触した多くの日本の人々が仏教の教理を知っていた」と記録しています。『日本書紀』によると、日本への仏教伝来は、西暦552年に百済よりもたらされたといいます。日本の仏教はかつて貴族や権力をもつ人々など特権階級のものでした。
貴族たちはあちこちに寺を建てたり寄進したり、仏教は財力や学問のある世界のものでしたが、鎌倉時代以降は「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に行くことが約束されるという浄土真宗の登場など、財力や学をもたない民衆にも近い存在となっていました。
宣教師たちが京の都で過ごす中でも、説教師による説法を、男女の別なく多くの人(二千人ほど)が聴く場面があったことが記録されています(フロイスの『日本史』)。その説教師の説法は立派なもので、高度な技術を用いた説法は尊敬にあたいするものであったと感想が述べられています。
このように、当時の仏教は文字ではなく口承によって民衆に広まっていたため、文字が読めないことで制限されることなく、一般の人々も仏教の教義を理解していたのです。
宣教師たちはこのような日本の人々を「思慮深く、よき判断力を備え、道理に従順な人々」(1565年6月19日のフロイスの書簡より)と評価する一方で、だからこそ彼らの疑問に答えるために日本の仏教を学んで知識をつけなければならず苦労したようです。
仏教の考えを論破してやっと改宗につながる
日本の人々はまずキリスト教に触れるとき、仏教と照らし合わせて考えるために、宣教師たちは彼らとの議論の中で仏教の多数の宗派の根拠を指摘して論破しなければ改宗にはつながりませんでした。というのも、仏教について何も知らないような宣教師の言葉は軽蔑され、人々に見向きもされなかったのです。仏教徒の攻略(改宗)にはまず知識をつけて議論のレベルを上げるところから始めねばならず、かなりの労力を要したことでしょう。
禅宗との論争に苦戦
その議論で特に有名なのが、禅宗(臨済宗や曹洞宗など)との論争でしょう。宣教師たちは日本の僧侶たちとの論戦にことごとく勝利したという報告書を送っていますが、実際にはかなり苦戦したように思われます。禅宗の教義といえば「人は死ねば何も残らず、霊魂の不滅などなく、来世の賞罰もない」というものです。特に霊魂の不滅に関してはキリスト教とは反対の考え方。人間には特別な不滅の霊魂があるという宣教師に対し、禅僧は次のように反論しました。
人間の理解力・自由意志・記憶力は肉体の衰え・老化に比例して衰えていく。肉体が滅びても霊魂は不滅だというのはおかしいのではないか。理解力や判断力を肉体と切り離して考えることはできない。
というような疑問です。禅僧の意見はもっともであり、合理的に思えます。ほかにも、
人間を救う善良さを本質とする神(デウス)が、なぜ今まで日本人だけを放っておいたのか。本当に善良ならばもっとはやくに日本人を救うためその教えを伝えたはずではないか。
人間には特別な不滅の霊魂があり、その他の被造物である動物にはそれがないというが、両者が死ぬときには何ら違いがない。人が死んだら霊魂がどうなるのか見えもしないのに、なぜその違いがあることがわかるのか。
人間には特別な不滅の霊魂があり、その他の被造物である動物にはそれがないというが、両者が死ぬときには何ら違いがない。人が死んだら霊魂がどうなるのか見えもしないのに、なぜその違いがあることがわかるのか。
という反論が出ました。
また禅僧だけでなく、キリシタンになりたいと熱心に学ぶとある武士からもこんな疑問が投げかけられます。
悪魔は神の恩寵を失ったはずなのに、恩寵を受けているはずの人間より大きな自由を持ち、人間を危機に陥れるほどの力を持っているのはなぜか。
神は人間に繁栄することを命じているのに、なぜ宣教師たちは禁欲と節制を立派なものと考えているのか。
神は人間に繁栄することを命じているのに、なぜ宣教師たちは禁欲と節制を立派なものと考えているのか。
ぐうの音も出ないような反論や疑問が次々と投げかけられるわけですが、宣教師たちはいったいどう答えたのか……。
最後には説得できたと記録されていますが、どうなのでしょう。宣教師たちが報告したこれらの反論について、出版段階ではいくつか削除されたものもあります。
特に禅宗に関しては、もともとのフロイスの書簡にはなかった「とりわけ禅宗の徒、すなわち獣のように生活している僧侶は」という文言が付け加えられており、創造主に対するあれこれの反論を忌々しく感じたのでしょう。
宣教師たちは仏教全般を否定的に見ていましたが、こういう経緯もあってかとくに苦戦させられた禅宗については「獣」呼ばわりするほどだったのです。
「悪魔が偽造した宗教」?キリスト教とあらゆる点で似ていた仏教
宣教師たちはキリスト教以外の異教を「悪魔の教え」といい迫害しました。アフリカ土着の信仰をそのように断じて黒人宗教を迫害したことが知られていますが、仏教についても「悪魔が偽造した宗教」と考えていました。というのも、意外にもヨーロッパから遠く離れた日本の地で浸透していた仏教はキリスト教に似た部分が多く、その類似は「悪魔が偽造したから」とでも考えなければ説明がつかない部分があったのです。
- 「釈迦」と「イエス」の誕生エピソードなど
- 「十大弟子(※フロイスは12人の弟子と訳す)と四人の年代記作者をもつ釈迦」と「12の使徒と4人の年代記作者(ここでいう伝記は福音書)をもつキリスト」
そのほか、仏教行事にもキリスト教の行事と酷似するものがありました。
- 「祇園祭」と「聖母教会のキリスト聖体祭」
- 「お盆」と「キリスト教が祖先の霊魂に対して諸死者の日のころに行う祭式と霊魂のための祈り」
- 「寺院・尼寺」と「修道士・修道女の修道院」
などなど、宣教師たちはキリスト教にかかわるものとあまりにも酷似した行事までも、「悪魔が偽造した」ものとみなしました。
日本の人々はキリスト教をまったく新しい宗教とは思っていなかった?
宣教師自身がこれほど酷似していることを認めているほどなので、日本の人々はなおさら似ていると感じたでしょう。「似ている」どころか、「同じ」と考えた人も多かったのです。人々はその違いを理解するまで両者を混同してしまい混乱しました。しかし、それだけ「同じもの」のように捉えられたからこそ、日本でのキリスト教布教がスムーズにいったともいえるでしょう。
民衆にまで広く仏教が浸透していたことで宣教師たちは論破するのに苦労しましたが、一方でキリスト教の理解においては仏教があったからこそ円滑に進んだのです。
【参考文献】
- 神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社、2010年)
- 神田千里『戦争と宗教』(岩波書店、2016年)
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