小牧・長久手の戦い後、徳川家康が豊臣秀吉に屈服させられた経緯と事情

秀吉に和睦を申し入れた家康

 天正12年(1584)3月、織田信雄は徳川家康とともに豊臣秀吉に戦いを挑んだ(小牧・長久手の戦い)。戦いは各地で行われたが、同年11月、信雄は秀吉から提案された和睦に応じた。これを知らなかった家康は、徐々に孤立していった。天正13年(1585)11月、家康の重臣・石川数正が秀吉のもとに出奔したので、家康は苦境に陥った。こうして、家康は秀吉との和睦に応じざるを得なくなったのである。

 天正14年(1586)1月24日、信雄は三河へと下向して家康に面会し、和睦の件で了承を取り付けた(『顕如上人貝塚御座所日記』)。信雄は、秀吉と家康の和睦を仲介しようとしたのである。もはや、家康には選択の余地がなかった。

 その後、しばらく和睦の動きは見られないが、2月26日に家康は北条氏政と面会をした(『家忠日記』)。内容までは詳しく書かれていないが、氏政は同盟の相手なので、秀吉との和睦の件を相談した可能性が高い。2人は鎌田(静岡市駿河区)で面会し、家康はその日のうちに浜名(静岡県浜松市)へ帰った。

 話は前後するが2月8日、秀吉は一柳直末に書状を送り、家康の人質の件が滞ったので成敗しようとしたが、赦免の申し出があったので許したと伝えた(「一柳文書」)。同日、秀吉は蜂須賀家政にも書状を送り、家康を赦免したことを伝えた(『阿波国徴古雑抄』)。それだけでなく、秀吉は東国、北国、西国、鎮西(九州)までが自分の思い通りになったと述べ、家政に大坂城の普請に従事させるべく、2月23日以前に来るように命じた。なお、秀吉の出陣取りやめは、信濃の真田昌幸にも伝えられた(「真田家文書」)。

旭姫を妻に迎えた家康

 秀吉から赦免された家康は、氏政と伊豆国三島(静岡県三島市)、駿河国沼津(同沼津市)で2回にわたって会談をした(「西山本門寺文書」など)。当時、北条家の家督は子の氏直が継いでいたが、氏政が後見として力を持っていた。2人は面談し、互いの関係に変わりないことを確認したのである。

 秀吉は家康を許す条件として、妹の朝日姫の輿入れを求めた。4月5日、秀吉は直末に書状を送り、清須までの人足と馬を用意するように命じた(「一柳文書」)。朝日姫は佐治日向守と結婚していたが、家康に嫁がせるため、むりやり離縁させられたという。秀吉はそこまでしてでも、家康との関係を重視したのだ。

 しかし、ここで大問題が発生した。家康は朝日姫を受け入れる際、秀吉のもとに家臣の天野景能(康景)を派遣した。ところが、秀吉は景能のことを知らなかったので激怒し、重臣たる本多忠勝か榊原康政を派遣するよう要求した。これにより、婚儀は延期となったといわれている。

 この一件により、家康は秀吉との交渉を打ち切ろうとしたが、仲介した信雄の家臣・土方雄良は、「秀吉との関係を断つと信雄の面目が潰れる」と説得したため、最終的に本多忠勝を使者として秀吉のもとに派遣した。結局、両者の関係は回復し、5月になって家康と朝日姫の婚儀が成立したのである。2人が婚姻関係で結ばれたことによって、家康と秀吉は親類になった。

 秀吉は家康が配下に加わったので、かつて家康に従っていた真田、小笠原、木曽の三氏を戻すことにしたが、真田昌幸だけは命に応じなかった。それどころか、人質を差し出さず、反旗を翻したのである。激怒した秀吉は家康に真田の討伐を許したので、家康はすぐに出陣の準備を進めた(『家忠日記』)。しかし、上杉景勝の仲介もあって、真田討伐は中止になったのである。その後、家康が三河東部の城の塀や門を壊したのは、秀吉に敵対心がないことを示すためだったと考えられる。

家康の上洛と臣従

 こうして家康と朝日姫が結婚したので、次に家康の上洛の件が俎問題になった。9月24日、浜松に滞在中だった家康は、秀吉の使者に会うため岡崎へ移った。家康の上洛に関する件である。9月26日、家康は秀吉からの使者の浅野長吉、津田盛月、そして信雄の家臣・織田長益、滝川雄利、土方雄良を交えて話し合った。その翌日、家康は浜松に帰ったのである。

 しかし、家康は上洛に危険があると考えていたのだろう。10月7日、家康の心中を察した秀吉は誠意を見せるため、母・大政所を三河に遣わすことになった(『多聞院日記』)。これは、家康の上洛に伴う交換条件であり、厳密な意味での人質ではなかった。『多聞院日記』には、正親町天皇の譲位のことが書かれているので、秀吉の威勢を人々に見せつけるべく、上洛を急がせたのだろう。大政所は10月13日に大坂を発ち、三河国へと向かった(『多聞院日記』)。

 10月14日、家康はに浜松を出発すると、吉田(愛知県豊橋市)に至った。その後、吉良(同西尾市)、宇頭(同岡崎市)を経て西上した。10月18日に大政所は岡崎に到着した。家康が大坂に到着したのは、10月26日のことである。到着した家康は秀長(秀吉の弟)の邸宅を宿所とし、翌日に秀吉と面会した(以上、『家忠日記』など)。これにより、家康は秀吉に臣従の意を表すことになったのだ。

 11月1日、家康は大坂を発って上洛した。その4日後、家康は秀吉とともに参内し、正三位・権中納言に叙位任官された(『公卿補任』)。秀吉の弟の秀長も、まったく同じ官職に叙位任官された。家康は官職においても、秀吉の下位に位置付けられることになった。秀吉は朝日姫を家康のもとに嫁がせて縁戚関係を作り、公家にすることで配下に取り込んだのである。

 その後、家康は正親町天皇の譲位式に参列し、終了後には帰国した。11月12日、人質の役割を終えた大政所は、三河から大坂へと戻ったのである(『家忠日記』)。こうして、家康は完全に秀吉の配下に組み込まれた。このような長い過程を経て、秀吉は家康を臣従させることに成功したのである。以後、家康は秀吉の命に従い、豊臣政権の運営に携わることになった。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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