「源明子」藤原道長のもう一人の妻 6人の子を育てた側室

 源明子(みなもとのあきこ、965~1049年)は藤原道長の側室で、「高松殿」と呼ばれます。正室・源倫子に並ぶ6人の子をもうけ、道長を支えた「もう一人の妻」です。幼いとき、父が藤原氏の政敵として失脚。逆境からスタートした人生ですが、養育者に恵まれ、道長と出会い、夫の栄華を支える華麗な生涯を送ったといえます。

「安和の変」父失脚 道長姉・詮子が養育

 源明子は道長の1歳上。ちなみに道長の正室・源倫子は道長の2歳上です。通称「高松殿」は父の元の邸宅・高松殿から。道長の日記『御堂関白記』では「近衛御門」と書かれ、これも居住の邸宅に由来します。

 「明子」の読みは「あきらけいこ」、「あきらこ」の可能性もあります。不確定なので、学問上は「めいし」と音読されます。平安時代前期の『伊勢物語』では「明子」は「あきらけいこ」と読みますが、平安時代中期以降は「あきこ」と読むなど現代に近くなるようです。

 父・源高明(たかあきら)は醍醐天皇の第10皇子。母は藤原師輔五女・愛宮。明子は天皇の孫であり、政界最高実力者の孫。師輔三男・兼家を父に持つ道長とは、またいとこの関係になります。

源明子の略系図
源明子の略系図

母は藤原師輔五女 道長のまたいとこ

 源高明は7歳で臣籍降下し、藤原氏と出世を競い合い、『源氏物語』の光源氏を連想させる生い立ちです。当時の最高実力者・藤原師輔とは良好な関係を保ちましたが、師輔死後は孤立。左大臣に上り詰めますが、安和2年(969)の安和の変で失脚します。

 明子はこのとき5歳。異母兄の高明長男、次男は出家。三男の源俊賢(としかた)は11歳で連座は免れ、この後、大学寮で学ぶなど苦学し、後に道長の側近として活躍します。明子の同母弟・源経房(つねふさ、高明五男)は1歳。後に権中納言まで出世します。

 父母の年齢差はかなりあります。源高明は藤原実頼次女、次いで師輔三女を妻としました。源俊賢の母である師輔三女は応和2年(962)、29歳で死去。高明とは20歳の年齢差がありました。継室の愛宮は師輔五女で、30歳近い年齢差があったと想像できます。

道長の姉・詮子、大切に養育

 源高明失脚直後、豪邸・西宮殿は焼失し、明子の母・愛宮は出家します。明子は叔父・盛明親王(醍醐天皇第15皇子)の養女となりますが、実父・高明を天元5年(982)に、養父・盛明親王を寛和2年(986)に亡くします。

 その後は道長の姉・詮子(あきこ)に養育されます。『大鏡』によると、詮子は自身の部屋に劣らぬ飾り付けをし、女房や侍女も別に付けて、かなり大切に扱いました。ただ、年齢差は3歳で、天皇の母と没落貴族の娘という関係。詮子の女房として仕えたとする見方もあります。

道長兄弟からモテモテ 詮子の選択は?

 永延2年(988)頃、明子は24歳前後で道長の側室となります。その経緯が『大鏡』にあります。詮子の同母兄弟である道隆、道兼、道長がいずれもラブレターを送って求婚。詮子のお眼鏡にかなった道長だけが明子のもとに通うことを許されました。

道長との間に4男2女

 明子は側室ですが、『大鏡』でも「2人の夫人」と表現されるように、道長にとって大切な妻でした。子も6人います。正暦4年(993)、29歳のときに産んだ頼宗から、寛弘2年(1005)、41歳で産んだ長家まで4男2女です。

 道長次男・頼宗は右大臣、三男・顕信は若くして出家、四男・能信と六男・長家は権大納言となりました。三女・寛子は小一条院(敦明親王)の女御、五女・尊子(たかこ)は源師房(村上源氏)の妻です。

 なお、頼宗の幼名は「巌」、顕信は「苔」。寛子の初名は「提子」または「媞子」、尊子の初名は「隆子」でした。

三男・顕信出家に放心状態

 右大臣になった次男・頼宗は父・道長の評価も高く、治安を担当する検非違使別当(長官)など多方面で活躍しました。

 一方、三男・顕信。長和元年(1012)1月、突然出家します。当時、19歳で右馬頭に就いており、将来を嘱望されていただけに、明子は大きなショックを受け、気を失うほど。明子の様子に道長も卒倒しますが、『大鏡』では、顕信の出家に理解を示します。

道長:「今さら愚痴を言っても無駄だ。あまり悲嘆して、仏道修行の決心が乱れても気の毒だ。今までに法師にした子がいなかったから、これもやむを得ない」

 前年の寛弘8年(1011)12月、三条天皇が空席となった蔵人頭に顕信を就けようとすると、道長は顕信の見識不足を理由に辞退。父の評価が低いと受け止め、出家動機につながったようです。

 説話集『撰集抄』には別の話があり、顕信は、源高雅の娘との結婚話を嫌って出家したとあります。没落貴族を嫌った変なプライドですが、源高雅は道長に近い人物。顕信の同母兄弟である頼宗、長家は高雅の娘を妻としています。

4男2女を得るも正室・倫子とは格差

 明子の子は、右大臣となった頼宗を筆頭に能信と長家は権大納言と、それなりに出世しますが、道長正室・倫子の子は長男・頼通、五男・教通ともに関白。道長は正室との子とは明確に差を付けていたのです。

小一条院前妻に祟られた三女・寛子

 娘たちの嫁ぎ先も大きな格差があります。

 倫子の娘たちは、長女・彰子が一条天皇中宮、次女・妍子は三条天皇中宮、四女・威子は後一条天皇中宮、六女・嬉子は後朱雀天皇の皇太子時代の妃。みな、天皇、皇太子の正室です。

 一方、明子の娘は三女・寛子と五女・尊子。

 寛子は寛仁元年(1017)、19歳で小一条院(敦明親王)の女御となります。三条天皇の第1皇子ですが、天皇即位への道が閉ざされた時点での結婚。なお、小一条院には既に妻子がいました。藤原顕光(兼通の長男)の娘・延子で、『小右記』(藤原実資の日記)によると、寛子の結婚直前、顕光は延子の髪を切り、呪詛したという凄まじさ。延子は寛仁3年(1019)、顕光は治安元年(1021)に相次いで亡くなります。

 寛子は、夭折の2人を含め、小一条院の子を4人産みますが、万寿2年(1025)、27歳で死去。顕光父子の悪霊に祟られたといい、『栄花物語』では死の直前、「小一条院との結婚は不条理だった」と道長に訴えています。そして道長に髪を剃られて尼になります。闘病の数カ月、明子も大いに嘆き、放心状態でした。

夫や子の出世を見届けた五女・尊子

 尊子は万寿元年(1024)、22歳で源師房の妻となります。源師房は具平親王(村上天皇の第7皇子)の子で、元服して臣籍降下しています。元皇族とはいえ、格差は大きく、『栄花物語』によると、同母兄の頼宗、能信は納得できなかったようです。

 『大鏡』も世間の人々の評判をこう書いています。

「師房の君は官位の低い方で、道長殿の婿には釣り合わない」

 しかし、尊子の夫・源師房は右大臣、尊子が産んだ長男・俊房は左大臣、次男・顕房は右大臣と出世。尊子も70歳を超える長寿を全うし、長女・彰子以外は短命だった姉妹に比べ、幸福だったといえます。明子も尊子の幸福を喜びました。

六男・長家は那須与一のご先祖

 明子の末っ子である道長六男・長家は歌壇の中心人物としても活躍。歌道・御子左家の祖となります。寛仁2年(1018)に賀茂祭の祭使を務め、明子も見物しました。

 また、長家の孫・資家は須藤貞信と改名し、那須与一を輩出した那須氏のルーツとなります。藤原秀郷流の首藤氏との養子関係で、2系統の家系が統一されたか、どちらかの家系が乗っ取られて、那須氏につながっていくとみられます。

おわりに

 源明子は万寿2年(1025)7月に寛子、万寿4年(1027)5月に顕信、12月に道長と夫やわが子を見送り、永承4年(1049)に85歳の長寿を全うしました。

 道長正室・源倫子との関係はライバルであり、同志といったところ。『源氏物語』での夕霧の2人の妻が連想できます。紫式部がモデルにしたわけでもないでしょうが、光源氏の嫡男・夕霧は正室・雲居雁との間に4男3女、側室・藤典侍との間に2男3女をもうけ、正室と側室が互いを疎ましく思いながらも、第3の女性の登場に同情的なやり取りもします。

 明子は醍醐天皇の孫という誇りや失脚した源高明の娘という負い目など複雑な感情、背景はあるにせよ、側室の立場にそれほど屈折した感情は持たなかったと思われます。幼少期の逆境を乗り越え、詮子の厚遇ぶりや道長兄弟がそろって熱を上げた逸話から、人をひきつける明るさを持ち、生まれながらに華のあるキャラクターだったと想像できます。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『公家源氏』(中央公論新社、2019年)中公新書
  • 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」』(講談社、2009年)講談社学術文庫
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 山中裕、秋山虔、池田尚隆、福長進校注・訳『栄花物語』(小学館、1995~1998年)
  • 大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。