豊臣家と運命を共にした大野治長…淀殿とは乳兄弟の間柄。関ヶ原以降の豊臣家で重きをなす存在だった?
- 2023/12/08
戦国時代最後の合戦となった大坂の陣(1614~15)。豊臣家の滅亡が迫る中で片桐且元のように豊臣家と決別した家臣がいる一方で、豊臣家に殉じた家臣もいました。その代表格が大野治長です。
今回は大野治長の生涯を掘り下げ、豊臣家における治長の立場について考察したいと思います。
今回は大野治長の生涯を掘り下げ、豊臣家における治長の立場について考察したいと思います。
乳兄弟の間柄だった大野治長と淀殿
大野治長は淀殿の乳母であった大蔵卿(おおくらきょう)の長男として誕生。永禄12年(1569)生まれで淀殿とは同い年とみられ、2人は乳兄弟の関係でした。なお、父は大野佐渡守と伝わっています。母の大蔵卿は秀頼期の豊臣家中において、淀殿に仕える侍女の筆頭として君臨した人物です。実は大蔵卿・治長親子は、淀殿が幼いころから近い関係にありました。
大野氏はもともと尾張国の住人であったとされ、大蔵卿は織田信長の妹・お市(淀殿の母)の侍女を務めていたようです。お市が浅井長政(淀殿の父)に嫁した際に、大蔵卿も一緒に付き従ったと考えられています。こうした縁で、大蔵卿は誕生したばかりの淀殿に乳母として仕えたのです。
天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際、お市が自害し、娘の淀殿は秀吉に引き取られました。当然、大蔵卿や治長も淀殿と行動を共にしたと考えられています。治長は秀吉に家臣として取り立てられ、秀吉生前は馬廻衆に名を連ねていたことがわかっています。
秀吉没後の慶長4年(1599)正月、大坂城の勤番体制が定められ、治長は詰番衆二番の筆頭になりました。また、秀頼に直接言上できるものの一員にも含まれているように、秀頼の側近として豊臣家中に存在していたのです。
治長が秀頼の有力な側近となったのは、誕生以来の淀殿との関係に起因するものと考えられます。淀殿と非常に親密だったため、密通の噂が流れたこともありました。現在の研究ではこの噂は誤報だったと考えられていますが、二人の関係はそんな噂が流れるほどだったのがわかります。
意外にも関ヶ原合戦では東軍に加担
秀吉の遺言にもとづき、秀吉死後の政権体制については、秀頼が成人するまでの間、「五大老・五奉行」による集団指導体制で運営することになりました。中でも徳川家康と前田利家は別格の存在とされ、家康は伏見城、利家は大坂城でそれぞれ政務の総括をするように定められました。ただ、前田利家は大坂城に居住することになった秀頼の養育係も担っていましたが、重病を患っていたことで同年閏3月に大坂で亡くなります。
以後、家康が本格的に豊臣政権を主導するようになるのですが、こうした情勢の中、同年9月に家康暗殺計画が露見。五奉行の増田長盛の密告によって家康の知るところとなりました。
事件の真相については、現在も研究途上にありますが、前田利長・浅野長政・そして大野治長が事件への関与が疑われました。家康は事件に対応するために大坂城に入り、事件関係者を処罰しました。利長は人質を江戸に差し出して恭順の姿勢を示し、長政は隠棲することになりました。そして治長は関東に配流されたことがわかっています。
翌慶長5年(1600)6月、上洛要請を拒否した上杉景勝を武力討伐(会津征伐)するため、家康は大軍を率いて大坂城を出陣。翌月には石田三成・宇喜多秀家・毛利輝元などが挙兵(西軍)し、西軍諸将は大坂城に入ります。
そして9月15日。関ヶ原の決戦で東西両軍がぶつかりますが、意外なことに、このとき治長は家康方の東軍に加わっていたことがわかっています。しかも東軍の先陣に加わり、戦功を挙げているのです。
この後、治長は大坂に戻り、以降は秀頼の側近として秀頼・淀殿母子を再び支えることになります。ところで淀殿の立場ですが、ドラマや小説では、関ヶ原合戦の頃より反家康の立場で描かれることが多いかと思います。そのため、関ヶ原では西軍を支持していたとするのが従来のイメージでした。
しかし最近の研究では、淀殿は石田三成が挙兵する段階で家康に鎮圧を要請している点、また毛利輝元が大坂城に入った段階でも家康排除を明確には同意していなかった点、等が指摘されるようになりました。
淀殿は必ずしも西軍を支持していたわけではないことがわかります。乳兄弟の治長が東軍に味方したことは、淀殿からみれば、特に問題となる行為ではありませんでした。
豊臣家中で重きをなした片桐且元と大野治長
関ヶ原合戦に勝利した家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任官されました。ここに家康は豊臣大名から脱却し、新たな武家政権(江戸)を樹立したことになりますが、このあとも大坂の陣(1614~15)までは徳川と豊臣は協調関係にありました。そして両家の協調関係を維持するために重要な役割を果たしたのが片桐且元と大野治長でした。
片桐且元
片桐且元は関ヶ原合戦以降、豊臣家中の筆頭家老に位置しており、徳川氏と交渉を進めながら、所領支配や寺社再建など、豊臣家の政務を取り仕切っていました。 もともと片桐氏は淀殿の生家にあたる近江浅井氏の旧臣でした。且元も古くから淀殿とは面識があったと思われます。且元は秀吉の死去直前に秀頼傅役の一人に加えられましたが、淀殿との関係が考慮されたものとみられます。
また、家康も且元に信頼を置いていたようで、且元の姪(弟・貞隆の息女)は、家康の側近である本多正信の三男・忠純と結婚しています。すでに秀頼の正室には家康の孫娘・千姫(秀忠息女)が輿入れしており、当主と重臣の間で縁戚関係を構築しました。
このように二重の縁戚関係が結ばれ、豊臣と徳川の協調関係が維持されていました。
大野治長
片桐且元のみが徳川氏との協調を担っていたわけではありません。同様の状況にあったのが大野治長です。すでに言及したとおり、治長は淀殿の乳母・大蔵卿局の子息であり、淀殿とは乳兄弟という間柄。当然、淀殿からは相当な信頼を得ていました。
さらに治長の母・大蔵卿も関ヶ原以降の豊臣家中において、奥向きを差配する立場となっており、片桐且元と並ぶ重鎮であったと考えられています。イメージとしては江戸幕府3代将軍・徳川家光と春日局(家光の乳母であり、のちに大奥を創設)の関係に近いでしょうか。
家康との関係については、治長はかつて家康暗殺未遂疑惑(1599)に連座し、一時は失脚して関東に配流されましたが、関ヶ原合戦(1600)で東軍に参戦、奮闘したことで復権を果たしていました。
以降、家康と良好な関係を築いていたようで、しばしば駿府に参府していることが確認できます。徳島藩主の蜂須賀至鎮は治長を通じて、家康の動静を確認しようとしたことがあり、両者の良好な関係は諸大名の間にも周知の事実であったとみられます。
また慶長19年(1614)、家康の意向によって、治長と片桐貞隆(且元弟)は秀頼から知行の加増を受けています。ここから近年の研究では、家康は治長を片桐且元に次ぐ重要な存在として、認識していたと考えられています。
ちなみに治長と貞隆は、加増のお礼のためにわざわざ駿府・江戸に出向いています。さらに、治長には治純という弟がおり、治純は駿府にて家康に仕えていました。
大野治長と淀殿の最期
以上の経緯から大野治長は、片桐且元に次ぐ位置で、豊臣・徳川両氏を繋ぐ存在として重要な立場にいたのでした。治長と且元はともに淀殿にとって親近な存在であり、なおかつ家康との関係も良好だったのです。しかし慶長19年(1614)に方広寺鐘銘問題が勃発。この問題を巡る対応から、治長と且元の間では対立が生じます。
豊臣氏に服属を迫る家康の要求に対して、且元は服属やむなしと考えた一方、治長は徹底抗戦の考えを示しました。結果的に秀頼・淀殿は治長の意見に同調し、且元は家老職を解かれ、豊臣家中から追放されることになりました。
新たな家老には治長が就きましたが、家康は豊臣討伐を決定、両者は武力衝突に至ります。大坂冬の陣(1614)で一度は和睦が成立しますが、すぐに破綻し、再戦となった大坂夏の陣(1615)にて豊臣氏は滅亡。慶長20年(1615)5月8日、治長は秀頼・淀殿・大蔵卿とともに自害しました。
治長は誕生から最期まで淀殿と一緒でした。こうしてみると豊臣家に殉じたより、淀殿に殉じたと考えたほうがいいかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社、2017年)
- 小川雄「秀吉死後の政局と将軍就任」・「大坂の陣への道程」(黒田基樹編『戦国大名の新研究3 徳川家康とその時代』(戎光祥出版、2023年)
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