カツオ&マグロが日本一の町「焼津」…実は戦国大名・北条氏の礎の地だった!

 日本武尊命に因む静岡県焼津市はカツオとマグロの漁業水揚げ額が日本一の町です(令和2年資料)。そんなカツオ&マグロの町、焼津市が戦国時代に関東一帯を支配する北条氏にとって礎の地であることは、みなさんご存知だったでしょうか?

 今回は、焼津市が戦国大名・北条氏にとって礎の地である理由を解説します。

後北条氏とは

 戦国時代の末期、関東一帯を支配し、豊臣秀吉に最後まで抵抗したのが小田原城(神奈川県小田原市)を居城とする北条氏です。

 “勝って兜の緒を締めよ”や“小田原評定”など、この北条氏に纏わる言葉も多いですね。

 鎌倉幕府の執権であった北条氏と区別するため、一般に“後北条氏”と呼ばれることもあります。その後北条氏の初代となるのが、北条早雲こと伊勢新九郎宗瑞です。
※補足:北条早雲は北条という姓を名乗ることなく、早雲の跡を継いだ氏綱が最初に北条を名乗ります。しかし、一般的に北条早雲という名が有名なので、以降は“北条早雲(または早雲)”で表記統一します。

北条早雲の肖像(小田原城天守閣所蔵、出典:wikipedia)
北条早雲の肖像(小田原城天守閣所蔵、出典:wikipedia)

 ところでなぜ、焼津が後北条氏の礎の地なのでしょうか?それは、後北条氏初代の早雲が初めて拝領した城が焼津にある「石脇城」だったからです。

石脇城の概要

 石脇城は静岡県焼津市石脇下字山崎にある標高30m(比高25m)の丘に造られた、いわゆる “丘城” です。

 現在は一の郭に大日堂、三の郭に城山八幡宮が建っていて、登城道は比較的整備されており登りやすくなっています(それでも真夏は・・・。山城あるあるですね)。

 詳しい築城年代は不明です。但し、江戸時代後期に書かれた地誌である『駿河記』には、

〇城山<嶺に大日堂、中之段に稲荷祠、古井筒あり>文明年間、伊勢新九郎居住之地なり。
 長氏(※1)長享年中<一云応仁>京都を出て駿河に来り、今川上総介義忠に寄留す。室北川殿(※2)の内縁に依り諸士是を敬す。義忠、長氏をして石脇に居住せしむ。氏親の代、駿河郡興国寺の城主となり、此処より引移ると云。
『駿河記』
※1 長氏…伊勢新九郎宗瑞。後の北条早雲。
※2 室北川殿…伊勢新九郎の姉。今川義忠の妻。

と記述があり、文明年間(1469~89年)に北条早雲が石脇城に居住していたことがわかります。

 ちなみに、早雲が興国寺城へ移動した後、石脇城が使われた記録は残って無いないため、廃城となったと推測されます。

早雲が焼津に来た理由

 駿河守護の今川氏は、文明8年(1476)に当主の義忠が塩買坂(今の菊川市小笠町)で横地氏の残党に襲われて討死し、嫡男・竜王丸(のちの今川氏親)とその叔父の小鹿範満との間で家督をめぐり、内紛が起きます。

 この時、小鹿範満は駿河の今川館に入り、一方の竜王丸は焼津小川城の長谷川正宣(法永長者)に保護され、その後、丸子に建てた館へ移動しています。この内紛調停のため、室町幕府の奉公衆であった早雲が京都から駿河にやってきて石脇城に入りました。

今川家の家督争い(龍王丸 VS 小鹿範満)の構図
今川家の家督争い(龍王丸 VS 小鹿範満)の構図

 そもそも、早雲は竜王丸の母である北川殿の弟だったこともあり、今川家に縁のある者でした。早雲は竜王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行するという約束を結ばせることでこの内紛を解決します。実際、文明11年(1479)に幕府より正式に龍王丸への家督相続が認められています。

 つまり早雲はこの事態を穏便に解決しようとしたのですね。しかし、小鹿範満は家督を竜王丸に譲りませんでした。彼が強気になれたのは、扇谷上杉定政の重臣・太田道灌の後盾があったからと思われます。

 ところが文明18年(1486)、その道灌は主君の上杉定政によって殺されてしまいます。早雲はこの機を見逃しませんでした。ちょうど幕府が出した六角高頼討伐の動員令に乗じて駿河で兵を集め、長享元年(1487)に範満を討ちとるのです。

 これによって、ようやく竜王丸は駿河の今川館へ帰ることができました。『今川記』などによれば、この功で早雲は富士下方12郷を与えられ、沼津の興国寺城へ移ったとされます。

後北条氏の礎となった焼津

 その後、早雲は伊豆を手中に収めて小田原(相模)へ。これ以降の活躍と後北条氏の繁栄はみなさんもご存知の通りだと思います。つまり、冒頭で触れた通り、後に関東一帯を支配する後北条氏の礎は、ここ「焼津」で築かれたのです。

 しかし、早雲の歴史を紹介した本やサイトを見ると、全てが石脇城に触れているわけでは無く、世間に周知されているとは言い難く、非常に残念です。

 総構えの代名詞ともいえる巨大城郭 “小田原城” や “山中城” にある畝堀や障子堀など特徴的な城造りのイメージがある後北条氏。その後北条氏の礎となった石脇城がどのようなものであったのか、実際にしっかりと見てほしいと思います。

石脇城に行ってみよう

 国道150号線を焼津から静岡方面に走り、“石脇下” 交差点を左折すると右前方にちょっとした丘(城山)が見えます。

 現在の登城口は城跡の南東にあります。道路沿いに「石脇城跡」と書かれた標柱が立っているので、見落とさないように注意してください。その標柱から民家と畑の間にある細い道を入っていくと階段があり城山に登って行くことができます。

石脇城跡の標柱と登城口
石脇城跡の標柱と登城口

 城跡は、大きく捉えると3つの曲輪(平坦部)に分かれています。細かく見ていくと7つの曲輪が確認できますが、藪や木々に覆われている所や耕地造成による改変も多いため、相当マニアックな目で見ないと分かりにくいです。ただし、大きな曲輪や登城道は、草木が刈られていたり案内表示があったりと、非常に見学しやすく整備されています(感謝です)。

 ちなみに戦国期の城とは、山の麓に館(普段の生活の場)、山の上に城(戦闘時の拠点)を造るのが一般的です。先に紹介した道路沿いの標柱から城山に登る階段まで続く細い道の右側、現在は民家が建っている辺りに北条早雲の館があったと考えられています。

 ですから、そこはスルーしないで「あぁ、ここで早雲は駿河湾でとれた美味しい魚を食べていたのかなぁ」なんて想像しながら歩いてみて下さい。あとは現地にある説明板を参考に丁寧に見ていただければ結構楽しめるハズです。

石脇城跡の説明板
石脇城跡の説明板

 城の規模の小ささには驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、焼津に来た早雲の目的や立場などを考えると、これで十分だったかもしれませんね。

まとめ

 関東一帯を治め、巨大な総構えをもつ小田原城のイメージが強い後北条氏。そんな後北条氏の礎はカツオとマグロの町、静岡県焼津市にあった石脇城という非常に小さな城でした。

 ここをスタートとして強大な後北条氏を作り上げたと考えると、人生何が起こるか分かりませんね。


【主な参考文献】
  • 『戦国 今川氏』小和田哲男 静岡新聞社(1992年)
  • 『焼津市史 通史編 上巻』焼津市史編纂委員会(2005年)
  • 『焼津市史 資料編一 考古』焼津市史編纂委員会(2004年)
  • 『焼津市ホームページ』

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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