真田信繁は大坂夏の陣で死んでおらず、実は生き延びて伊勢に潜伏していた!?

大坂夏の陣で戦死した真田信繁

 慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣で豊臣方に与した真田信繁は、徳川軍と死闘を演じたが、無念にも戦死した。その最期については、史料によって諸説あるが、亡くなったのは紛れもない事実である。しかし、信繁は大坂夏の陣で戦死しておらず、生き延びていたという説は各地に残っている。

 それらの話は、信繁がはっきりと「生きていた」と記していないが、その生存をうかがわせる記録である。そのうちの1つは、信繁の代理人が寺社に参ったというもので、伊勢および紀伊に残る伝承である。まずは、伊勢に残る伝承を紹介することにしよう。後世に成った『古留書』という書物には、以下に示すとおり信繁が生き残っていたという説を披露している。

 かつて、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の天下人に仕官したことがある、歴戦の勇士の玉川意楽入道という武将がいた。意楽入道の娘は、真田信之(信繁の兄)の側室だったという。そうした関係もあって、意楽入道は信之の配下に加わっていたが、意楽入道がどのような人物だったのか、ほとんど知られていないのも事実である。

玉川意楽入道の伊勢参り

 あるとき意楽入道は、同心(= 意楽入道の配下の者)を伴って伊勢参りを行った。「あるとき」とあるだけで、きちんと年月日が書かれていない。その時、2人は道に迷ってしまったかのごとく、熊野の裏山のよくわからない場所に入ってしまい、2日間にわたり民家もないようなところを通った。そうして歩いていると、裏山のある場所に岩屋があった。

 意楽入道は岩屋の入口に同心を残すと、単身で岩屋に奥深く入り、そこで一晩を過ごした。しかし、意楽入道が岩屋で何をしていたのかは不明である。それ以来、毎年正月を迎えると、意楽入道はなぜか同心を伊勢に代参(= 本人に代わって神仏に参拝すること)させるようになったのである。

 伊勢に持参した箱には「上」という字を書き、箱の重みは鳥目(銭)19疋くらい(現在の貨幣価値で1万円程度)の重さがあったという。その箱を岩屋に持参すべく、同心は1月15日までに到着するようにした。

 岩屋口で同心が一両日ほど休憩していると、頭が白髪で70歳くらいの年齢の老人が姿を見せ、無言でその箱を受け取った。一晩を経過すると、老人は箱を閉じた状態で持って来て、その上に「参る」と書いて同心に渡した。同心はその箱を受け取ると、再び意楽入道のもとに帰るのだった。

 誠に不思議な話であるが、同心には意楽入道から代参の趣旨を聞かされていなかった。命令なので、黙って従ったに過ぎないのである。

代参の意味とは

 箱に「上」と記されていることを考慮すると、この老人は少なくとも意楽入道より目上の人物と推測される。この老人の正体は、はっきりと記していないが、信繁であることを暗に匂わせていると考えられる。老人が信繁だったので露見するとまずく、意楽入道は同心に代参の目的を詳細に教えなかったのである。

 つまり、信繁は大坂夏の陣で戦死しておらず、密かに戦場を離脱して、岩屋で潜伏生活を送っていたことになる。意楽入道は信繁が生き延びていたことを知ったので、密かに経済的な支援を行っていたのである。

 もちろん、疑問がないわけでもない。そもそも人里離れた地でどのように過ごしたのか、また身元がバレなかったのか、疑問は尽きない。とにかく、信繁は仙人のような生活を送りつつ、真田氏と縁が深い意楽入道から金銭を受け取っていた。しかし、この老人を明確に信繁と書かず、生きていることをはっきりさせないのは、作為を感じなくはないところである。

同心の死

 この話には、まだ続きがあった。同心は意楽入道の使者として、毎年、代参と称して岩屋を訪問していたが、とうとう大病に罹って亡くなった。同心が病没したことにより、伊勢の岩屋への訪問は途絶えたと推測される。同心が亡くなる1日前、同心は妻と次のような会話を交わしたという。

妻:「50~60年も結婚生活を送ってきたが、どうしても合点のいかないことがある」

妻:「あなたは明日をも知れぬ命であるので、正直に伊勢に行っていた目的を話してほしい」

 同心の妻はこのように述べて夫に懇願したのである。どうやら夫の行動に不信感を抱いていたようだ。夫が驚いたように「何事か」と言ったので、妻は続けて次のように述べた。

 
妻:「毎年、意楽入道の依頼によって、あなたは毎年伊勢に代参していた。ところが、代参の前日にあなたと意楽入道は夕暮れから夜が明けるまで、2人だけで語り合ってから出発していた。普通の人は伊勢に参宮すると、すぐに戻ってくるが、あなたは7日も10日も過ぎてから帰ることが8度もあった」

 妻は長らく疑問に思っていたので、夫が亡くなる前にその秘密をどうしても知りたかったのである。果たして、夫の答えはいかなるものだったのか。

真相は闇の中

 夫は妻の話を聞いて、しばらく無言だったが、亡くなる2時間ほど前に妻を呼び出して真相を語った。夫は妻にすべてのことを話すと、「他言無用」と言い残して、そのまま亡くなったのである。ところが、大変惜しまれることに、話の内容については一切書き残されていない。

 夫は、おそらく妻に「信繁が生きていたので、伊勢まで行って金を持参していた」とでも言ったのだろうが、すべてを書き残さなかったのである。こうして真相は、すべて闇の中ということになろう。実に思わせぶりな話である。これでは、信繁が生きていたという証明にはならず、ますます疑念が深まるばかりである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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