応神天皇の正体は渡来人? 百済の王子説、新羅の王子末裔説など…

『集古十種』より「応神帝御影」(誉田八幡宮 蔵、出典:wikipedia)
『集古十種』より「応神帝御影」(誉田八幡宮 蔵、出典:wikipedia)
 応神天皇(おうじんてんのう。記録上の生没年は201~310)は、第15代に数えられる天皇です。実在したかどうかはハッキリしませんが、『古事記』や『日本書紀』によると、渡来人を用いて国家を発展させたとされる人物です。

 応神天皇の在位中、渡来人から多くの大陸文化(漢字・ 儒教・ 機織・ 造船 etc...)が伝わり、大和朝廷の勢力が飛躍的に発展したと考えられているようです。ちなみに応神天皇が実在したとして、その在位時期は400年前後頃と推定されています。

  ”応神天皇陵” と呼ばれる大阪府羽曳野市の「誉田御廟山古墳」は、全国2位の規模を誇る巨大な前方後円墳ということで、まさに応神天皇の権力の強大さを物語っています。また、誉田御廟山古墳の南側には「誉田八幡宮」があり、応神天皇を主祭神として御陵祭祀を司どっています。

 「八幡宮」は九州の宇佐神宮をはじめ、各地に置かれている神社で、いずれも応神天皇を祀っており、応神天皇こそが八幡神として崇められているのです。

 今回は応神天皇が渡来人である説、そして八幡神社の祭神となっているワケ等をみていきたいと思います。

「応神天皇=昆支王」説

 一説によると、応神天皇は百済の皇子・昆支王(こんきおう。?~477)その人であるといいます。

 昆支王は5世紀の人物であり、百済の蓋鹵王(がいろおう)を父(あるいは兄とも)に持ちます。雄略天皇5年(461)に百済から日本へ遣わされました。そして、倭王済の娘に婿入りしたといわれ、彼自身は倭王武となって活躍したとされるのです。

 当時、倭国には5代に渡って遣宋使を送った王らがいました。讃・珍・済・興・武の5人で「倭の五王」と呼ばれます。この「武(倭王武)」が昆支王であり、倭王武は雄略天皇(418~479)のことであるという説が有力でした。

 でも、ちょっと待ってください。これまでの話を整理すると、以下4人は同一人物ということになっています。 

  • 応神天皇
  • 武(倭王武)
  • 昆支王
  • 雄略天皇

 しかし昆支王が461年に来日している点から、倭王武=雄略天皇、というのはなんだか辻褄があいませんね。

 5人の王がどの天皇に当てはまるのかについては、さまざま議論がされてきましたが、ひとつの仮説として、倭王武は応神天皇であるとするものがあります。つまり、応神天皇は百済の皇子・昆支王であったという説です。

 同じように、昆支王の弟である餘紀は継体天皇と同一であるという説があり、日本最大の古墳である大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に埋葬されているのは、実際には継体天皇(450?~531?)であるとも言われます。そうなると、仁徳陵・応神陵は、ふたつながらにして百済の王子の墓なのではないか、ということになります。

応神天皇の母「神功皇后」は新羅の血脈?

 さらに、もうひとつの仮説を見ておきましょう。これは、応神天皇の母である神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわるものです。

 そもそも神功皇后自身は、新羅の王子であった「天日槍(あめのひぼこ)」の子孫であるとされています。つまりは応神天皇にも新羅の血が流れているということになります。また一説に、九州において邪馬台国の卑弥呼に取って代わり、女王となった「台与(とよ)」であるとも言われており、これについてもさまざまな推論がなされています。

 実は神功皇后は、通説においては架空の人物とされていますが、『古事記』や『日本書紀』によれば、神の怒りを受けて急逝した夫の14代 仲哀天皇に代わり、神功皇后は次の天皇となる皇子、つまり応神天皇を身籠ったまま新羅征伐に赴いたとあります。

 腹の子が新羅を自分のものとすると神の託宣があったため、応神天皇は母親の胎内にいながらにして新羅を制する天皇であることが約束されており、よって「胎中天皇」と呼ばれました。

神功皇后の朝鮮出兵を描いた浮世絵(月岡芳年 筆、出典:wikipedia)
神功皇后の朝鮮出兵を描いた浮世絵(月岡芳年 筆、出典:wikipedia)

 応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の間にもうけられた皇子ということになりますが、神功皇后は実際には仲哀天皇が没してから13ケ月を経たのち、九州まで戻ってようやく皇子を産み落としています。

 それは果たして本当に仲哀天皇の胤だったのでしょうか。天皇が亡くなったのは2月5日、応神天皇の誕生は12月14日とされ、一見計算はあっていますが、実は当時の天皇の誕生日が記録されることはきわめて異例で、むしろそこに疑念が生じます。わざと平均的な妊娠期間とされる「十月十日」をきっちりと当てはめて設定した、偽の誕生日ではないかということです。

 あえて応神天皇の誕生日を操作する理由として考えられるのは、応神天皇の実父が仲哀天皇ではなかったという仮説です。たとえば、仲哀天皇が崩御した際に皇后のそばに居た竹内宿禰(たけのうちのすくね)がほんとうの父ではないか、とも言われる所以なのです。

 母が渡来人の末裔で、父もまた天皇でないとすれば、少なくとも「万世一系」の血脈とは言えなくなってしまいますが、真実はいまのところ誰にもわかりません。

八幡神として祀られる応神天皇

 平安時代の史料(『東大寺要録』『住吉大社神代記』等)に八幡神を応神天皇とする記述が登場したことで、両者は同一視されはじめ、やがて応神天皇は八幡神として祀られるようになったようです。

 日本の神の種類はさまざまで、「天照大神」を代表とする日本神話に登場する神々もあれば、「天神様」と呼ばれる菅原道真のように実在の人物が神格化されたものもあります。また、八幡神のように神話には登場せず、その後に祀られるようになった神々も存在するのです。

 宇佐八幡宮の縁起によれば、住吉大明神と神功皇后が交わって生まれたのが八幡神であるといいます。 つまり、同一視(八幡神= 応神天皇)されている両者の母は、同じ神功皇后であるということです。

 第45代・聖武天皇は、宇佐の八幡神の託宣によって東大寺の大仏を建立しますが、これには聖武天皇が血縁である藤原氏の手を離れようとしていた思惑が見え隠れします。かつて藤原氏の政敵であった蘇我氏の縁に連なる応神天皇こそが、自身の祖であるとアピールしているかのようです。

 大仏建立に大きく貢献した八幡神は、こののち国家神としてこの国に定着することになりました。のちに八幡神を奉った源氏もまた、応神天皇の末裔であろうと推測されるでしょう。

おわりに

 母・神功皇后を架空としながら、その子である応神天皇は実在したであろうというのが一般的な見方です。

 「渡来神」とも言われる新羅の王子の血を引き、あるいは、女王・台与として邪馬台国に君臨したとも言われる神功皇后は、果たして実在したのでしょうか。それとも、応神天皇自身が、百済からやってきた王子だったというのでしょうか。

 神代と史実の境が混沌としていた時代、複数の史実が重なり合い、混ざり合って、真実はベールの向こうに隠されています。政治的な思惑も絡みつつ、実在の人物同士が統合・分離されたり置き換えられたり、また架空の人物が歴史の隙間を埋めたりと、我々の知る史実はさまざまなフィルターごしと言わざるを得ません。

 謎に包まれた時代であればこそ諸説あり、史実を拾い集めてさまざまな仮説が立てられ、それらの仮説は互いに影響し合い、反発しあいながら古代史を形作っていきます。今後、また新たな発見や推論が、ますます古代のロマンを掻き立ててくれることが楽しみですね。


【主な参考文献】
  • 関裕二『応神天皇の正体』(河出書房新社、2012年)
  • 林順二『八幡神の正体』( 彩流社、2012年)

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  この記事を書いた人
遥つくね さん
主に日本史関連を書かせていただいているWebライターです。日本史が好きで時代劇も好き。史実と創作のギャップも楽しんでいきたいです。主に戦国時代から江戸時代幕末までが守備範囲ですが、古代〜中世あたりも好きなので、勉強を深めていこうと思います。

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