山梨交通事件 小佐野賢治が堤康次朗と直接対決した唯一の事件

西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者・堤康次郎
西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者・堤康次郎
 国際興業グループの創業者・小佐野賢治氏といえば、ロッキード事件の国会証人喚問で「記憶がございません」と答弁したことで、一躍知られた人物です。田中角栄氏と「刎頸の友」とも称された小佐野氏ですが、世間一般での評価は、国会での答弁が話題になってしまい、やはり ”悪役” のイメージが強い方が多いと思います。

 しかし、Wikipediaを見るとびっくりされると思います。そこに書かれているエピソードは現代の経営者が見習うべき、ともいえる内容がずらりと書き並べられているからです。極貧の家庭に生まれた小佐野氏ですが、天才的な商才と人一倍大きな体格と度胸、気迫を持ちながらも「常に自分に厳しく、他人には優しく丁寧に接する」ことを重んじ「社員を大事にし、困っている人がいれば損をしてでも助け船を出す」という人物だったのです。

 東急グループの総帥である五島慶太氏は、そんな小佐野氏をかわいがり、小佐野氏も五島慶太氏を師と仰いでいました。しかし、そんな小佐野賢治氏にも弱点が2つありました。

 その1つは「名門好き」という性癖です。帝国ホテル、日本航空等の名門会社の筆頭株主になったのも、そんな「名門好き」という性癖から出たものです。また奥さんは旧伯爵家の令嬢でした。これは小佐野氏が切に臨んで実現したものでした。

 そして、もう1つが「故郷である山梨県に対する愛着」でした。どんな相手であっても常に真正面から立ち向かっていった小佐野氏は商売において「誰かにしてやられた」ということは、それまで一度も無く、常に「してやったり」という側だったのです。

 そんな小佐野氏が、ただ一度だけ「してやられた」のが今回、取り上げる「山梨交通事件」です。

そもそもの発端

 山梨県には山梨交通という明治時代に設立された歴史のあるバス会社がありました。そして1959年(昭和34年)の初頭に山梨交通の社外重役の一人が小佐野氏に相談をしに訪ねてきます。

 それというのも当時の山梨交通の社長であった河西俊夫氏は2代目のボンボンでした。朝は定時に来ず、10時半過ぎにやってきて、仕事もせずに美術品の話に夢中になり、午後2時には退社してしまう、という有様だったからです。

 一方で、小佐野氏は朝は誰よりも早く出社して本社屋ロビーのソファで新聞を読み、出社する社員全員に挨拶をするような人物です。役員が9時ぎりぎりに出社したりしたら、怒鳴りつけたそうです。社員ならば定時でも良いが、経営者である役員は社員よりも早く出社するのが当然、というのが小佐野氏の考えでした。

 そして、その社外重役は「このままでは山梨交通の前途が思いやられる。ですので小佐野さんに経営陣に加わって頂きたい」という依頼をしてきたのです。

 普段の小佐野氏であれば、一旦、返事は保留し自ら山梨交通の経営状態を調査するなりしてから返事をしたでしょう。しかし故郷である山梨県のバス会社であったので小佐野氏は2つ返事で引き受けてしまいます。山梨に関することになると、小佐野氏は盲目的になってしまうところがありました。

 小佐野氏を山梨交通の役員として迎える件は山梨交通の役員会議でも承認されましたが、山梨出身の経済界の重鎮・小林中氏の仲介もあって、必要な株は小林氏が手配することとし、来年5月の株主総会で正式に決めた方が問題なかろうということになりました。

 この采配により、小佐野氏の山梨交通への経営参加は1年後から、ということになったのですが、この「1年後」というのがあだとなってしまうのです。

河西社長の暗躍

 山梨交通の河西社長は小佐野氏が経営に参加してきたら、もう自分の好きなようにはできないと察し、密かに小佐野氏の排除計画を実行し始めます。しかし、地方のローカルバス会社である山梨交通の社長の力では小佐野氏に、とても対抗はできません。そこで河西社長は西武グループの総帥、堤康次朗氏に協力を求めたのです。

西武グループの持株会社である西武ホールディングス 本社の「ダイヤゲート池袋」(豊島区)
西武グループの持株会社である西武ホールディングス 本社の「ダイヤゲート池袋」(豊島区)

 堤康次朗氏と言えば、一代で西武グループを築き上げた大物です。東急の五島慶太氏とは、同じ鉄道会社であることから常に熾烈な争いを繰り広げていたことでも知られていました。鉄道会社というのは路線を通すのに土地を必要とします。また路線を黒字にするためには路線沿線に商業施設や娯楽施設を作り、乗客を増やすのが常套手段でしたので五島慶太氏と堤康次朗氏は、常に都合の良い土地を争っていたのです。

 両者とも、その土地取得の方法は相当に強引でしたので、五島慶太氏は「強盗慶太」、堤康次朗氏は「ピストル堤」と呼ばれました。これは堤氏に強引に土地を買い取られた元地主が日本刀を持って堤氏のところに抗議に行った際、堤氏は机の引き出しからピストルを取り出し「なんか文句があるのか」と追い返したことから付けられた、あだ名です。

五島慶太(出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像)
五島慶太(出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像)

 河西社長は小佐野氏が五島氏と仲が良いことを知っていたので、その宿敵である堤氏に協力を求めたのです。そして、堤氏は協力を承諾し、早速、山梨交通の株の買占めを始めました。小佐野氏にとっては「晴天の霹靂」でした。師匠である五島慶太氏の宿敵、堤康次朗という大物が出てくるとは思ってもみなかったからです。

 この時、五島氏と堤氏は伊豆箱根の観光開発をめぐり、通称「箱根山合戦」と呼ばれる戦いの真っ最中でもあり、堤氏が山梨に乗り込んでくる理由が分かりませんでした。しかし、実際に堤氏の株の買占めが進行し始めると、小佐野氏はこれに全力で対抗し始めます。

株の買い占め競争

 山梨交通は地元に根付いた企業でしたので、甲府周辺には山梨交通の株を所有している人が沢山いました。小佐野氏は国際興業の社員を多数連れて甲府に乗り込み、旅館を一軒、借り切り活動を開始します。一万円札を山ほど積み上げ、山梨交通の株を金に糸目をつけずに高値で買い取り始めたのです。

 山梨県というのは山間部が多い場所ですので、国際興業の社員は札束を背負い、山間部を歩き山梨交通株を買い漁りました。この時の小佐野氏の様子を、当時、国際興業の社員だった熊王徳平氏は

「とにかく小佐野氏は、なりふりかまわなかった。株を持っている人なら、どんな人にでも会い、株を持ってきたら札束の山から金をわし掴みにして渡していた」

と述べています。

 この小佐野氏の行動は堤氏を刺激しました。堤氏から見れば、小佐野賢治氏はまだ若く、対等の相手とは見ていなかったのです。堤氏は「あんな若僧に負けてたまるか!」と西武グループの社員を大量に甲府に送り込み、やはり高値で株を集めさせ始めました。甲府近辺は国際興業対西武グループの争いの場となり、山梨県はこの話題でもちきりとなりました。

 当初、1株50円だった山梨交通株はあっと言う間に300円になり、さらに400円、500円…と日を追うごとに暴騰。ついには850円にまで上がってしまったのです。

株主総会

 いよいよ5月の株主総会が近づいてきました。山梨交通の全株数は400万株ですが、この時点で小佐野氏、堤氏、河西氏の持ち株は、それぞれ130万株となり、堤、河西連合の方が多く小佐野氏は窮地に立たされます。

 優勢となった堤、河西組は事前の役員会で堤氏の作ったペーパーカンパニーである駿河観光と山梨交通の合併を議決してしまいます。しかし、これが「勇み足」となりました。駿河観光の実態を調べた国際興業の今井役員は、それがペーパーカンパニーであることを突き止め、それを知るや小佐野氏は甲府地方裁判所に先の山梨交通の役員会の議決無効を提出したのです。

 そして、それにマスコミが飛びつきました。新聞を読んで事情を知った株主は一斉に小佐野氏の味方となり、次々と株主総会における「委任状」が小佐野氏の元に届けられたのです。これで形勢は逆転、遂に株主総会の日を迎えます。

 会場となった山梨県民会館に小佐野氏は、山の委任状を手にして一族郎党を引き連れて乗り込みます。すると、驚いたことに県民会館は既に「満席」になっていました。河西社長の手配で山梨交通の社員が先に会場に入り、全ての席を独占してしまっていたのです。

 要は「会場には入れさせないぞ」ということでした。また、受付もわざと時間を引き伸ばすような対応をして小佐野氏が総会に参加できないように仕組まれていました。

 激怒した小佐野氏は受付を無視して委任状を手に無理やり会場に乗り込みます。すると総会は始まっており、どんどん進行していきます。途中、小佐野氏が「異議あり!」と言っても議長は無視し、会場を埋め尽くした山梨交通の社員は「進行!進行!」と合唱し、無理やり議事は進められ、僅か12分で終了となってしまいました。当然ながら全ては堤、河西組の思惑通りに議決成立してしまいました。

 しかし小佐野氏はすぐに甲府地方裁判所に株主総会の議決執行停止の仮処分申請を出します。そしてその申請は認められ、株主総会での議決は裁判所により「執行停止」となってしまいます。

 もはや完全に泥試合の様相を呈してきた山梨交通事件ですが、そもそもが河西社長の「現状を変えたくない」という身勝手な思いから出たものであり、内容は小佐野氏を経営陣に加えるかどうか、というだけの事なのです。

 いわゆる経営権を巡る争いという訳ではありません。にも関わらず、ここまで凄い争いになってしまったのは珍しいという他ありません。

遂にご本尊登場

 株主総会が終わって2か月経った7月26日、遂に河西社長組のご本尊である堤康次朗氏が山梨県民会館に姿を表し、記者会見を行いました。

堤:「このたびの件は、長引けば山梨県の人々に迷惑をかけるだけだから。小佐野君とは話し合いで解決したい。駿河観光との合併は取りやめにして臨時株主総会を開こうと思う。そして私も小佐野君も持ち株を全て河西社長に譲るということにしたい」

と話しました。しかし小佐野氏はこの内容に反発しました。

小佐野:「自分は故郷である山梨のために、とことん頑張ってきたんだ。それなのに河西に株を譲れとは何だ。堤さんは山梨には縁もゆかりも無いじゃないか。先輩実業家なら私に株を譲って故郷のためにしっかりやれ、というべきだろうが」

遂に結末

 あくる7月27日、小佐野氏は堤氏と直接面談をすることになりました。すると堤氏はいきなり、こう切り出したのです。

堤:「小佐野君、わしの全株を君に渡そうじゃないか」

 さすがの小佐野氏もこの言葉には驚きました。そして堤氏は続けます。

堤:「その代わりといっては何だが、君、京浜急行の株を相当に持っているね。それと交換してくれないか」

 実は堤康次朗氏の本当の狙いは小佐野氏の持っている京浜急行の株でした。堤氏にとって山梨県のバス会社など、どうでもよかったのです。山梨交通の株買い占め合戦で使った金は、小佐野氏は3億円、堤氏は7億円でした。しかし7億円で小佐野氏の持つ大量の京浜急行の株が手に入るのなら、それは堤氏にとって「安い買い物」だったのです。

 小佐野氏は、それを了承しました。国際航業はバス会社であり鉄道会社の株を持っていても将来的に「何かの役に立つ」こともなかったからです。元々、小佐野氏の京浜急行の株は頼まれて引き受けたり、借金の棒引き代として入手したもので、何等かの思惑があって持っていたものでもありませんでした。ですので小佐野氏も「分かりました」と、その条件を飲み、やっと山梨交通事件は解決へと向かうことになったのです。

 実は全ては堤康次朗のシナリオでした。堤氏は小佐野氏が山梨となると盲目的になる点を利用して、大量の京浜急行の株を安く入手することに成功したのです。こうして、小佐野氏は晴れて山梨交通の経営に参加することになりました。

 河西社長は、堤康次朗氏の元へ行き、なぜ裏切ったのかを問い詰めようとしました。しかし、堤氏は河西氏が言葉を発する前に次のように言い、河西氏を呆然とさせたそうです。

堤:「君は実業家には向いてないから美術館の館長でもやったらどうだろうか」

 その河西社長は翌、1961年(昭和36年)に全株を小佐野氏に譲り社長を辞任、小佐野氏は会長に就任し実質的なトップとして山梨交通を手中に収めました。

 山梨交通を手に入れた小佐野氏は東京を走る国際興業のバスを日本海まで走らせるという野望を抱き、次は長野県にある諏訪自動車を手中に収めるべく動き出します。新潟までたどり着けば田中角栄氏の運営する越後交通と繋がります。

 後日、五島慶太氏に会った時に京浜急行株の件を問われ、「堤さんにしてやられました」と謝らざるを得なくなったそうです。しかし、堤康次朗氏はなんとも凄いシナリオを描いたものです。小佐野氏もこういったシナリオを描かせたら、決して負けない力はあったのですが、つい弱点を突かれてしまったのです。


【主な参考文献】
  • 大下英治『梟商 小佐野賢治の昭和戦国史』(講談社、1993年)
  • 今井新造『山梨交通紛争記』(愛宕山荘、1960年)
  • 熊王徳平『虎と狼』(日本経済新聞社、1975年)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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