幕府転覆計画発覚!慶安の変(由井正雪の乱)はなぜ失敗したのか?
- 2023/11/07
徳川幕府の世となって約50年、戦国の時代が遠くなりつつあった頃のこと。前代未聞の大規模な陰謀が起こった。いわゆる「慶安の変(けいあんのへん、1651年)」と称されるそれは、首謀者の名を取って由井正雪(ゆい しょうせつ)の乱とも呼ばれている。
未然に防がれたものの、数千人の浪人を扇動し、幕府転覆を狙ったと言われるこの変は、幕府の重臣たちをおののかせるには十分であった。今回はこの慶安の変の概要、そして首謀者である由井正雪の経歴、彼が変を起こした理由、時代背景などについて考えてみたい。
未然に防がれたものの、数千人の浪人を扇動し、幕府転覆を狙ったと言われるこの変は、幕府の重臣たちをおののかせるには十分であった。今回はこの慶安の変の概要、そして首謀者である由井正雪の経歴、彼が変を起こした理由、時代背景などについて考えてみたい。
由井正雪の経歴
幕府にとって大罪人である由井正雪の詳細な記録は処分されているためわかっていないが、生年は慶安10年(1605)、出身地は駿府だと言われている。農業兼紺屋(染物屋)の子として生まれた。家業を嫌った正雪は、臨済宗の寺に入れられているが、僧侶になる気もなく、数年後には寺を去って郷里に戻っている。その後、ある浪人から軍記や歴史書の講義を受け、武士へのあこがれを持ち始めたようだ。
菓子屋の後継ぎ
17歳頃に江戸へ出てきた正雪は、親戚である鶴屋弥次右衛門が営んでいた菓子屋に奉公し、そのまま婿入りをした。ところが正雪は、家業など見向きもせずに武士・浪人たちと遊学へ出てばかり。とうとう離縁されてしまう。軍学を習う正雪
同じころ、正雪は牛込で軍学を教えていた楠木不傳の門下に入る。熱心に学びながら不傳の世話も行っていた正雪は、不傳の篤い信頼を勝ち取り、菓子屋から離縁されたのをこれ幸いと、不傳の娘と再婚する。不傳の軍学書を授けられた正雪は師範になり、楠木正成にちなみ、「楠木正雪」や「由井正雪」と名乗るようになった。
軍学者・由井正雪
正雪は独立し、「張孔堂(ちょうこうどう)」という塾を開く。塾の名は、中国・前漢の初代皇帝劉邦に仕えた軍師・張良子房、蜀の初代皇帝劉備に仕えた軍師・諸葛孔明から取ったものだ。張孔堂には多くの門人が集まった。浪人の他、大名の家臣に旗本もいたというから、正雪はよほど教えるのが上手かったのだろう。門人は3000人を数え、彼の名声はどんどんと高まる。やがて紀州・徳川頼宜や備前・池田光政ら大名とも交流を持つようになった。
池田光政などは、正雪を五千石で召し抱えようとしたくらいである。しかし正雪はこれを断っている。自分にはもっと価値があると思っていたのかもしれない。いや、すでにこのころから密かにあの計画を練り始めていたのだろうか。
慶安の変(由井正雪の乱)
慶安の変が起こるきっかけは、家光の死去にあったと考えられている。将軍家光死去
慶安4年(1651)4月、3代将軍・徳川家光が病死する。後を継いだのはわずか11歳の家綱、まだ幼い将軍を補佐するのは松平信綱ら重臣である。政治的な権力が弱まったかに見える幕府に対し、由井正雪が動き出す。正雪の幕府転覆計画とは
正雪が考えた幕府転覆計画とは次のようなものだと言われている。「正雪の仲間である丸橋中弥が幕府の火薬庫を爆発させ、江戸城を焼き討ちする。同時に江戸各所に火を放つ。これに驚いて登城してくる老中ら幕閣を殺害し、将軍家綱を確保、家綱を駿府の久能山へ連れ出し、そこに待っていた正雪が久能山を本拠地とし、家綱を擁して政治の実権を奪う。正雪に呼応して、京都の二条城、大坂の大坂城も占拠し、京・大阪を掌握する」
この計画に集まった浪人の数は、2千とも3千とも言われているが、正雪はこんな大それた計画が本当に成功すると思っていたのだろうか。
計画の露見
同年7月21日、正雪は計画実行のために駿府に向かって江戸を出立する。23日、丸橋中弥が江戸で捕縛された。裏切り者による密告があったためだ。それと知らない正雪が駿府に到着したのが25日。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に身を寄せた正雪は、江戸での出来事を知らないまま、同志を待っていた。しかし駿府には、すでに江戸からの急使が到着していた。
瞬く間に「重大な犯罪者捜索が始まった」「キリシタンの詮議が行われる」などのうわさが広がり、梅屋は正雪ら宿泊者が対象ではないかと疑い、奉行所に訴え出た。この訴えにより正雪の居所が知られてしまう。
正雪の最期
26日、宿を囲まれた正雪たちは逃げ場が無くなった。しかし正雪は慌てる様子もなく言った。「我々は紀州大納言・徳川頼宜の家臣である」
取り方の役人たちは、本当に頼宜の家臣だったなら大変なことになると、二の足を踏んでいた。だが江戸からの情報で、宿の中の人物が計画の首謀者だと確信するに至ると、宿へ踏み込んだ。
彼らの姿を見ても落ち着き払った様子の正雪。この期に及んでも「頼宜の身内である」と言ったが心中ではすでに覚悟ができていたのであろう。奉行所まで同行するようにとの役人の言葉に、正雪は
「では乗り物にてまかり越す。しばし支度をする」
と言うと奥の部屋へ入っていったまま一向に出てこない。しびれを切らした役人が座敷へ踏み込んでみると、正雪たちはすでに自決し、介錯をした僧・廊然(かくねん)だけがただ一人自害する直前で捕縛された。
正雪享年47歳、彼が江戸を発ってわずか5日目のことだった。
一味の処刑
8月10日、丸橋中弥ら35名が磔刑、正雪の遺骸も磔となる。大坂で連絡を待っていた一味の金井半兵衛は、正雪の死を知ると8月13日に天王寺で自害。9月18日には、正雪の父母・妻子ら親族18名が処刑される。計画に加担した中心的な人物はすべて処刑、または自害し、事件は落着した。
正雪はなぜ失敗したのか
正雪がどれ程優れた軍学者だったとしても、この計画はあまりにもずさんで、成功の目はほとんどなかっただろう。しかしそれにしれもなぜこれほど早く簡単に失敗したのだろうか。幕府はとうに知っていた!
知恵伊豆と呼ばれるほどの切れ者・松平信綱は、島原の乱(1637~38)において指揮を取った経験で、浪人が決起したときの怖さをよく知っていた。幕藩体制安定を阻む壁の1つが浪人問題だと彼は考えていた。おそらく信綱は、日ごろから浪人の動きに目を光らせていたのではないか。そして浪人を扇動しそうな人物に対して、早くからスパイを送り込んでいた。正雪は計画を実行するにあたり、広く浪人を募っている。その中には幕府のスパイが数多く含まれていたと考えれば、陰謀の早すぎる発覚など当然のことだったと言える。
実際、丸橋忠弥が捕縛されたきっかけは陰謀の一味であったはずの奥村八左衛門であり、忠弥を正雪に紹介した弓師藤四郎も幕府に密告し、のちに褒美をもらっているのである。
頼宜失脚
正雪の計画を事前に知っていたとして、なぜ信綱はすぐに彼を捕縛しなかったのか。それは幕府にとって目の上のたんこぶとも言うべき人物の排除という別の目的があったからである。紀州藩藩主・徳川頼宜、彼こそ信綱のターゲットだった。正雪が紀州藩邸を訪れていたことで、信綱は頼宜の陰謀加担を疑う。いやもし加担していなくても、これをきっかけに頼宜を失脚させたい。そう考えた信綱は正雪を泳がせ、確かな証拠をつかみたかったのではないだろうか。
実際に正雪は役人に向かって「頼宜の家来である」と言っていた。また正雪が遺した書状には、あえて頼宜との関係を否定している。
もちろん徳川御三家の紀州藩藩主が簡単に正雪との関係を認めるわけもない。だが、結果的には慶安の変以後、頼宜は表舞台へ出ることはなかった。信綱の思惑通りになったのだ。この勝負は信綱の勝ちで終わった。
慶安の変は起こるべくして起こった
慶安の変が起こる以前、家光の時代には多くの大名がつぶされている末期養子(藩主が亡くなる直前に養子を立てて家を継がせること)が禁じられていたことで、改易となる大名も多かった。全国に浪人があふれたが、幕府は浪人たちの保護も再就職のあっせんもしていない。生活に困窮する浪人がどんどん増える。正雪の真意
正雪は、幕府の政策に不満を持っていたがために大それた計画を立てた。自らが先頭に立ち、幕府のやり方を改めようと考えていた。だが徳川幕府を倒すことまでは考えていない。家綱の補佐として、自分の才能でもって、新しい政治を行いたかったのではないだろうか。彼が遺した書状には、幕府の政策に憤り、困窮の極みに陥っている浪人たちを救うために、立ち上がったとある。本気で政道の中心に立てると思っていたのかどうかは、知る由もないが、少なくとも自分が立ち上がれば何かが変わると考えていたのだと思う。
だからこそ、陰謀が発覚した時でさえ落ち着き払い、粛々と自害するに至ったのだ。この後に続く誰かに何かを託したのか、(実際正雪が亡くなった1年後に別木庄左衛門ら浪人が徳川家の菩提寺である増上寺を襲い、幕府の重臣を殺害するという計画を立てていたが、これも事前に発覚し、首謀者たちは処刑されている)それともこれで政道は変わると確信したのか…。
幕府の浪人対策
正雪の読み通りではなかったかもしれないが、慶安の変以降幕府は、大名の扱いを見直している。末期養子の禁止を緩め、浪人の仕官をあっせんするようにもなった。一方で浪人に住居の登録を義務付けて、監視する。幕府安定期に向かい、浪人たちの牙は抜けていった。おわりに
慶安の変は正雪の一世一代の勝負だった。楠木正成にあこがれた正雪が浪人を束ね、幕府をひっくり返し、自らの政治を行うためには、家光から家綱へ代替わりしたあの時が千載一遇のチャンスだったのかもしれない。すでに安定期に入りつつある幕藩体制と知恵伊豆の前に敗れた正雪ではあるが、民衆には支持されていた。歌舞伎や読本の中でヒーローとなった正雪は、これからも生き続けていく。
【主な参考文献】
- NHK歴史発見取材班『歴史発見【1】』(角川書店、1992年)
- 加太こうじ『物語 江戸の事件史』(立風書房、1988年)
- 『日本史人物辞典』(山川出版社、2000年)
- 『日本史小辞典』(山川出版社 2001年)
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