「楽市楽座」織田信長の政策で築かれた自由市場はココがすごい!!
- 2020/03/13
織田信長の施行した政策の中で、必ずといっていいほど取り沙汰されるもののひとつが「楽市楽座令」です。信長が美濃や安土の城下で、既存の商習慣にとらわれない自由取引市場を出現させたことは、経済史上も大きなインパクトをもって語られています。
しかし、そういった市場の在り方は現代の私たちにとっては当たり前のことで、楽市楽座の何がどのように斬新だったのかということは、なかなか理解しにくいかもしれません。そこで、当時の経済の特徴を概観し、楽市楽座によってどういった点が刷新されていったのかを見てみることにしましょう。
しかし、そういった市場の在り方は現代の私たちにとっては当たり前のことで、楽市楽座の何がどのように斬新だったのかということは、なかなか理解しにくいかもしれません。そこで、当時の経済の特徴を概観し、楽市楽座によってどういった点が刷新されていったのかを見てみることにしましょう。
楽市楽座とは
そもそも「楽市楽座」とは何なのでしょうか?まずは歴史用語としての一般的な定義から入りましょう。歴史事典などでよく用いられるのは、織田信長や豊臣秀吉が城下町を繁栄させるために安土城下や長浜城下で行なった商業政策、経済政策というもの。
これはひいては城下の民であれば、誰でも商品経済に参加できるというものですね。現代風にわかりやすくいえば、商売において特定の組織にだけ許されていた経済活動の規制緩和を行うことで、新規の商人にも自由に営業をさせた政策です。
楽市楽座以前の経済は?
まず押さえておきたいポイントは、楽市楽座のもつ「自由取引市場」という強みです。これは裏を返せば、当時の経済は自由取引ではなかったということになり、独特の商習慣と流通組織が存在していました。
端的にいえば、中世の経済・金融を担っていた最大勢力とは「寺社」でした。すなわち寺院や神社といった宗教団体であり、金融業の元締めは神仏の権威を背景として勢力を蓄えたのです。
かなり意外に思うかもしれませんが、歴史家の網野善彦氏は宗教的権威が金銭を担保して金融業を行うことの合理性を、「無縁」という言葉で表現しています。
つまり、貸し借りのための金銭は神仏を象徴する寺社を経由することで誰の物でもない状態となり、それこそが一種の保証となったという考え方です。
他には寺社仏閣がバックボーンとなって特定の産品の流通・販売を統括する例があり、石清水八幡宮に拠って荏胡麻油を専売した「大山崎神人(おおやまざきじにん)」などはとても有名です。美濃での専売を許されていたことから、伝説上の若き斎藤道三が商ったのも大山崎の油とされています。
こういった商工組合は「座」とも呼ばれ、その専売とする商品を扱うためには必ずそのギルドに加盟しなくてはなりませんでした。先述の通りに宗教勢力がバックについていることからも、莫大な富を集約するシステムが出来上がっていたのです。
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楽市楽座の効果
このような専売公社的な経済活動が前提だったころに、それらの制約を撤廃したことから楽市楽座は画期的であるとされました。まず、上記のような「座」といったギルドに加盟する必要がなくなったため、いわゆるフランチャイズではなく個人事業主としての商売が可能となります。
また、従来は市が開かれる場所は限定されていましたが、有効範囲内であればどこで商売をしてもよいという市場の規制緩和も行われました。
これらのことによって、新規に経済活動へと参入するハードルが著しく下がったであろうことが考えられます。結果として活発な物流と取引が実現し、楽市楽座を布いた町には富が集約されることになっていきます。
楽市楽座の政策は織田信長が有名ですが、のちの天下人である豊臣秀吉も同様の自由取引市場を採用しています。
信長以前から楽市楽座はあった?
ところで、楽市楽座は信長の専売であるかのように思われているかもしれませんが、歴史的に先行事例がないわけではありません。確定的な史料はないものの、信長以前に楽市楽座を行った事例があります。ひとつは天文18年(1549)に近江国の「六角定頼」が観音寺城下で実施したもので、もうひとつに永禄9年(1566)に今川義元の嫡男「今川氏真」が行ったものがあります。
これらは同じ発想の経済活動の萌芽があったものと見ることができます。
楽市楽座のデメリット
活発で自由な経済活動を実現した楽市楽座ですが、メリットと同時にもちろんデメリットも存在しました。ひとつには、誰でも参加できることを逆手に取り、一部の有力商人が大名などと癒着して結果的に旧来の「座」に取って代わるという事態です。自由経済はビジネスのはっきりした成否を浮き彫りにし、競争力をもたない者がやがて淘汰されていくという側面も持っています。
もうひとつは、それまで経済界の中心となってきた寺社勢力の反発です。つまりは既得権益が脅かされることへの警戒心であり、石山本願寺や比叡山延暦寺など、織田氏と宗教団体との軋轢の原因のひとつを経済戦争に求める考え方もあります。
信長は楽市令の布告では売買の強要や喧嘩・口論などを禁じる条項を明記しており、そういったトラブルは十分に予測していたといえるでしょう。
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おわりに
楽市楽座とは、それまでの経済活動基盤である「座」などの組織との対比で考えられることが多いのですが、研究者によっては両者の二元論に終始しない冷静な意見も出されています。信長の例でいえば楽市楽座を推進する一方で、他の「座」の保護も行っていたことがわかっています。むしろ新旧の経済活動の対立というよりは、規制緩和と既得権益へのテコ入れを含んだ、武家による新たな経済統制への模索という考え方もあります。
これは江戸幕府が主導した経済活動の在り方にも通じるところがあるといい、楽市楽座はその嚆矢としての取り組みのひとつであるという評価もできるでしょう。
一方では、自身の才覚次第で富を築けるという可能性は、大きな夢を民衆に与えたのではなかったでしょうか。いわば「経済による下剋上」も可能となり、そういった点でも支持を集めたのかもしれません。
宣教師のルイス・フロイスは楽市が布かれた岐阜城下の様子を、「バビロンの雑踏」と例えています。武力とともに経済を制することこそが、天下人への重要な礎になることを信長は理解していたのでしょうね。
※バビロンはイラク中部にあったメソポタミア地方の古代都市のこと。
【参考文献】
- 「楽市楽座令研究の軌跡と課題」『都市文化研究 16』長澤伸樹 2014 大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター
- 『戦国時代の武家法制』隈崎渡 1944 国民社
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