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兵庫有数のお出かけスポット・明石は水産の町!「中部幾次郎」の像から歴史を探る

 明石は関西有数の水産の町。最近では子育てに力を入れている町としても知られていますが、日本の標準子午線が通っていたりとさまざまな特徴があります。明石駅にほど近い、明石城址は明石に来たら必ず訪れたいスポットのひとつ。実はそこに、「中部幾次郎」の像が建っているんです。

 どんな意味があるのか?明石の歴史を探っていきたいと思います!

明石は水産の町

 明石は神戸市に隣接する町。大阪からも約40分でアクセス可能ととっても便利な町でもあるんです。そして南は明石海峡大橋で淡路島につながっているなど、瀬戸内海を望む場所です。瀬戸内海は古くから関西でも貴重な漁場とされてきました。特に明石は「タコ」「いかなご」の名産地としても有名です。

魚の棚商店街は古くからにぎわってきた

 駅の近くには、水産物を中心とするお店でにぎわう「魚の棚商店街」があり、毎日多くの地元の人や観光客が訪れます。

魚の棚商店街で明石ならではのグルメを楽しみましょう
魚の棚商店街で明石ならではのグルメを楽しみましょう

 明石きっての観光名所なので明石を訪れた際にはまず魚の棚商店街を訪れるのがおすすめです。新鮮なお魚や水産加工品、「明石焼」などのグルメも味わえますよ。春には「いかなごのくぎ煮」が登場し、甘じょっぱく香ばしい、とっても良い香りに包まれます。明石ならではの味を、ぜひ味わってみて下さいね。

 この魚の棚商店街は、実は明石城と同じ江戸時代にできたというのが通説です。明石城の城下町であった水産物商店のいくつかが、「魚の棚商店街」の元になったといわれているそう。明石のシンボルともいえる明石城と魚の棚商店街は深く関わり合って発展してきたと言えるでしょう。

中部幾次郎(なかべいくじろう)ってどんな人?

 現在の魚の棚商店街付近にあり、生魚運搬業「林兼」という商店の次男として生まれたのが、中部幾次郎です。幕末の慶応2年(1866)生まれで明治から昭和初期にかけて活躍しました。

 中部幾次郎は若くから家業を手伝ってきましたが、その中で魚に関する知識を得て商売のコツを学んできました。その経験を活かし、魚を早く運搬する技術を開発し事業を広げていき、世界有数の漁業会社へ発展させることに成功します。現在でいう、「マルハニチロ」の前身の一つの会社です。

 中部幾次郎の残した功績は漁業だけではありません。造船所を造り発動機を開発するなど、造船という分野でも技術の向上と近代化に尽力しています。しかしその技術を自分の利益に使うのではなく、特許を開放し多くの人が使えるようにと日本全体の漁業の発展にも大いに尽くしたといいます。

 そういった功績がたたえられ、地元・明石の明石城址の入り口付近に像が建てられました。

公園の入り口付近に像があり、毎日多くの方がこの場所を通ります
公園の入り口付近に像があり、毎日多くの方がこの場所を通ります

明石を訪れたら中部幾次郎の像にも注目です

 中部幾次郎の功績は地元の人にとっては有名ですが、観光で明石を訪れた方にはなかなか知られていないかもしれません。しかし明石の商店から、日本でも有数の水産業者へと発展し、日本の水産技術の向上に尽力した功績は大きなものです。

 明石城を訪問する際は、そんなエピソードにも思いを馳せながら像を見てみて下さい。そして中部幾次郎の地元、魚の棚商店街でお買い物をして明石を楽しむのもおすすめですよ。

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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