衣替えはいつから始まったの? ~更衣の歴史をひもとく

春と秋に行われる「衣替え」。衣替えとは、季節の変わり目に応じて、夏服と冬服を入れ替える習慣のことです。うつろいゆく四季を感じながら、天気のいい日に衣替えをする方も多いのではないでしょうか。

江戸時代では、旧暦の4月1日になると着物から防寒用の綿を抜いていたため、この日を「わたぬき」と呼ぶ地域がありました。季節ごとに衣服を替える習慣は、さまざまな変化をともないつつ、現代まで時を重ねているのです。

今回は、日本における衣替えの歴史が、どのように変遷してきたのかを見ていきます。

衣替えの由来

現代の衣替えは、学校や企業の制服が替わったり、シーズンオフの上着などをクリーニングに出したりしますね。衣替えの時期については、地域にもよりますが、おおよそ6月と10月の初め頃に行われます。今や当たり前のように聞かれる「衣替え」という言葉ですが、その始まりはどのようなものだったのでしょうか。

「衣替え」の文化が日本で広まったのは、平安時代からと言われています。もとは古代中国の宮廷での習わしが日本へ伝えられたとされていますが、中国では具体的にどのような方法がとられていたのかまでは辿れませんでした。

ただ、当時中国で流行っていた漢詩には、秋の風物詩として「擣衣(とうい)」という言葉が多く用いられています。これは、防寒用の冬服を仕立てる際に、布を砧(きぬた)と呼ばれる台にのせて木づちで打ち、柔らかくするという風習でした。つまり、中国でも、秋には冬に着るための服を準備していたことがわかりますね。

さて、日本に衣替えが伝わり始めた頃は、衣替えを示す言葉として「着替える」という意味の「更衣(こうい)」が使われていました。今でも、スポーツジムなどで着替える部屋のことを「更衣室」と呼びますよね。

そこから、天皇の衣を替える女官のことも「更衣」と呼ぶようになり、後には後宮にて天皇に奉仕する后妃を指すようにもなりました。このままだと意味が重複してしまうため、習慣としての「更衣」は、「衣更へ(ころもがえ)」と呼ばれるようになったのです。

衣替え文化が日本に定着した理由

ところで、衣替えの文化はなぜ日本に根付いたのでしょうか?

高温多湿の日本では、夏は非常に蒸し暑く、冬は乾燥して極端に気温が下がります。今のように冷暖房などのない時代は、衣服によって体感温度を調節する必要がありました。

現代において、衣替えの日程は全国一律に決められているわけではありませんが、夏季は温度と湿度が高まった時、冬季は体温よりも温度が低くなった時に、より多く衣替えが行われるという考察があります。

たとえば欧米などでは、特定の時期に衣替えをする地域は少ないようです。これは季節によって気温差が大きく開かないためと考えられます。

一方で、日本で真夏にダウンコートを着ることはありませんし、冬で気温が10度を下回るようになると、屋外で半袖を着る機会もほとんどありません。

こうして見てみても、日本が1年を通じて寒暖差の激しい国であることがわかりますね。

衣替えがまだなかった古墳・飛鳥・奈良時代

古代へ遡ってみると、古墳時代の衣服は麻で作られたものが多く、身分の高い女性の衣裳(きぬも/スカート状の衣服)には絹も用いられていたようです。

また次の飛鳥・奈良時代では、まだ木綿(もめん)は伝わっていなかったものの、楮(こうぞ)と呼ばれるクワ科の植物を使って木綿(ゆう)と呼ばれる衣服を作っていました。

しかし、これらの時代では、季節にあわせて衣服を替えるような規定はなく、重ね着するなどして寒暖の差を調整していたようです。

平安時代の衣替え

衣替えが中国から伝わり、慣例として定着しつつあった平安時代。当時の文学作品にも、「衣替え」という単語が登場するようになります。『源氏物語(第十三帖 明石)』にて、

「四月になりぬ。更衣(ころもがえ)の御装束、御帳(みちょう)の帷子(かたびら)など、よしあるさまにし出でつつ」

とあるように、当時は旧暦4月1日に冬から夏の装束へ、旧暦10月1日に夏から冬の装束へと衣替えをしていました。

ただ、この頃は「衣替え」というと、主に4月に行われるものを指したようです。また、貴人の寝所である御帳台に使われる布など、室内の調度品も新しくしつらえていました。

また当時は、衣の襲(かさね/異なる色を重ねること)の色目や、衣に焚きしめた香りが、その季節にそぐわないものであった場合、冷ややかな目で見られてしまいました。その代わり、素晴らしい襲や香であれば称賛の的となったようです。貴族社会でのコミュニケーションは大変そうですね。

平安時代の衣替えは、こうした上流階級において広まったもので、まだ一般市民へは普及していなかったようです。そこから室町時代になると、男女別・季節別に細かく分けられ、江戸時代へと続いていきます。

江戸時代の衣替え

江戸幕府は、武士に対して1年に4回の衣替えを定めました。また木綿の生産が拡大したことにも伴い、衣替えの文化は商人や町人にも浸透していったようです。

<江戸時代の衣替え>
※日付はすべて旧暦
  • 4月1日:袷(あわせ/表地と裏地のある着物)、綿抜き(綿を入れた着物から綿を抜く)
  • 5月5日:単衣(ひとえ/裏地のない絹の着物)、帷子(かたびら/裏地のない麻の着物)
  • 9月1日:袷、3月末までは足袋の着用可
  • 9月9日:綿入(わたいれ・わたいり/袷仕立ての着物に綿を入れる)

こうして見ると、実にたくさんの着物が必要なように思えますね。しかし、当時の布は高級品。名のある武家であれば呉服店から買い付けていたでしょうが、一般庶民はそうもいきませんでした。彼らは数少ない着物を大切に扱い、ボロボロになるまで使い込んでいたようです。新品よりも安価に着物が手に入る、古着屋も繁盛していました。

また、衣替えのシーズンになると、縫い目をほどいた着物を洗い、糊付けをして干すという「洗い張り」が風物詩となっていました。とはいえ、こちらも洗濯を請け負ってくれる洗濁屋(せんだくや/京都では「洗い物屋」)に頼むこともできたようです。

近代以降の衣替え

明治に入ると、それまでの服飾文化ががらりと変わります。
明治5年(1872)11月12日、明治政府は公式な場で着用する礼服について、和服から洋服に変更するよう布告しました。

「大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為シ直垂狩衣上下等ヲ廃ス」
『法令全書』より

また、軍隊などの夏服と冬服の規定も行われ、衣替えは翌年から施行される新暦の6月と10月の2回と定められます。この時に決められた衣替えのスケジュールが、現代まで続いていることになりますね。

おわりに

現代の衣替えは、夏服と冬服の入れ替えをして、クリーニングに出して……などなど、けっこう忙しいというイメージがあります。ですが、古代から近世までの衣替えを振り返ってみると、各時代でそれぞれの苦労があるように感じられますね。

百人一首に、「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山(持統天皇)」という歌があります。みずみずしい山の新緑を覆うように、あざやかな白い衣が風に舞う。本格的な夏を前にした衣替えの景色がありありと目に浮かぶようで、百人一首の中でも特に好きな歌のひとつです。

衣替えとあわせて、調度品も新しく整えたという平安時代。家々の軒先で、洗い張りをした布が干されていたという江戸時代。それらの情景を想像してみると、時代は違っても、衣替えの風情がしみじみと伝わってくるように思います。

世界的な気候変動によって、日本の四季も変わりつつありますが、今の時代でも、季節の移り変わりを楽しみたいものですね。


【主な参考文献】
  • 三田村鳶魚『江戸年中行事』(春陽堂、1927年)
  • 吉田恭子、他「衣替えに関する一考察」『武庫川女子大学紀要 自然科学編50巻』(武庫川女子大学、2002年)
  • 谷口貢、他『年中行事の民俗学』(八千代出版、2017年)
  • 宮腰賢、他『全訳古語辞典 第五版 小型版』(旺文社、2018年)
  • 新谷尚紀『季節の行事と日本のしきたり事典ミニ』(マイナビ出版、2019年)
  • 川村裕子『はじめての王朝文化辞典』(KADOKAWA、2022年)
  • 室伏信助、他『日本古典風俗辞典』(KADOKAWA、2022年)
  • 源氏物語の世界HP 「明石(大島本)」 ※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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