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涙なしには語れない!幕末の会津藩の女性が貫いた武士道
- 2024/04/18
幕末・維新の戊辰戦争で心ならずも朝敵とされ、新政府軍に徹底攻撃された会津藩。白虎隊の少年たちに代表される悲劇の主は、男たちばかりでなく、女性たちも例外ではありません。会津藩の魂である「武士道」を貫きながら、最後まで戦い抜いた女性たちの姿を追ってみました。
中野孝子とその娘・竹子、優子の覚悟
「もののふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬわが身ながらも」
武士道を称え、そのはしくれに身を置ければと、この句を詠んだのが中野竹子です。会津藩では、多くの武家の子女が敵襲を前に自刃して果ててしまいましたが、竹子と母親の中野孝子、妹の優子は戦い抜く決意を固めていたのです。
中野親子は、他の女性たちとともに娘子隊(じょうしたい)を作り、藩主・松平容保の義姉である照姫を守るために戦場へと向かいます。そして、新政府軍の男たちを相手に薙刀を振るい、勇猛果敢に戦ったのです。
そのさなか、竹子が銃弾に倒れます。竹子の首を敵に渡してなるものかと、孝子と優子は鬼神のごとく敵をなぎ払い、ようやく竹子に近づけました。当時16歳だった優子は、姉の介錯を立派に果たし、竹子の「名誉」を見事に守り抜きました。
こののち、孝子と優子は若松城に戻り、容保らに戦況を報告します。討ち死にした竹子に対し、容保から直々に弔いの言葉を頂戴し、照姫は涙を流しながらその死を悼んだといいます。そして、孝子と優子は照姫の指揮のもと、籠城戦に加わったのです。
家老の妻・神保雪子の意地
神保雪子の夫は会津藩の家老・神保修理でした。修理は、京都守護職となった藩主容保に登用され、幕末には京都で容保の重臣として職務にあたっていました。王政復古の大号令によって、旧幕府内に薩長軍との主戦論が飛び交う中、修理は「今戦うのは不利」と非戦論を唱え、徳川慶喜に直接進言したとされています。結果として旧幕府軍は敗れ、非戦論者の修理は責任を取らされ、切腹させられたのです。
夫の死を知った雪子は、新政府軍の進軍を受けて実家に戻り、自刃するつもりでした。しかし実家の父から「神保家に戻れ」と追い返されます。その言葉に雪子は、戦って夫の後を追おうと決意したのではないでしょうか。
敵兵に捕まり、縛り上げられた雪子は、土佐藩士・吉松速之助に「あなた様の短刀をちょっとお借りできませんか」と懇願します。吉松は、雪子の悲壮な決意を悟ったのでしょう。短刀を渡すと、雪子は自分の喉を突き、見事に自刃を果たしたのでした。
山本八重(新島八重)の執念
明治になって同志社大学を創設した新島襄の妻となった新島八重も、会津戦争で勇敢に戦った女性の一人です。八重は会津藩の砲術家である山本家に生まれ、砲術や鉄砲の知識がありました。会津戦争が起きたのは八重が24歳の時で、白虎隊の少年たちに鉄砲の構え方や撃ち方などを教えたという逸話が残っているほどです。
中野親子ら娘子隊が薙刀を手に従軍する中で、八重はスペンサー銃を抱えていました。鉄砲で戦うことこそ、砲術家である山本家の使命だと強く思っていたのでしょう。刀と銃の違いはあっても、これが八重の武士道なのです。
八重は、銃撃戦のような前線での戦いとともに、弾薬の運び込みといった力仕事も担いましたし、女たちが担当する看護などにも従事します。しかし、奮闘虚しく会津藩は敗れてしまうのでした。
新政府軍は、降伏した藩士を捕らえ、女性や子供はお咎めなしとしたのですが、八重は戦死した弟になりすまし、降伏した藩士たちに随行したのです。最後まで戦い抜いた意地を見せつけたかったのに違いありません。
おわりに
中野親子が守ろうとした照姫は、会津戦争の籠城戦で、炊き出し、負傷者の看護、火災の消火など後方支援の陣頭指揮にあたりました。ある時は、自分の着物を引き裂き、包帯の代わりに使うよう指示したそうです。矢折れ力尽きた会津藩は、断腸の思いで降伏を受け入れます。その印となる「白旗」は、照姫や女たちが涙ながらに縫い上げたといいます。男たちに負けず劣らぬ会津の女性たちの武士道は、今も人々の心に響き続けているのです。
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