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桑名藩から巡り巡って桑名藩へ!久松松平家の悲喜こもごもなお国替え
- 2024/03/15
幕末に京都所司代として、将軍・徳川慶喜を支えてきた松平定敬は、久松松平家の桑名藩主でした。桑名藩は江戸時代初期に久松松平家が治めていましたが、途中113年間の空白を経て、江戸時代後期に再び久松松平家が戻ってきました。
久松松平家がたどってきたドラマチックな「お国替え」を見ていきましょう。
久松松平家がたどってきたドラマチックな「お国替え」を見ていきましょう。
藩祖・松平定勝から始まる桑名藩
そもそも久松松平家とは、どんな家だったのでしょうか。ルーツは徳川家康の母・於大にさかのぼります。家康が幼いころ、今川家と織田家の争いに巻き込まれた於大は、家康の父親である松平広忠と離婚させられます。そして於大が再婚したのが久松俊勝です。
俊勝と於大の子である久松定勝は、義理の兄・家康から松平姓を賜り、家康の天下取りを支えてきました。元和3年(1617)には本多家に代わって久松松平家の初代桑名藩主となり、東海道の要衝である桑名の地を治めることになります。
桑名藩は、定勝の次男(当時長男は早世)である定行が継ぎ、定行の伊予松山藩転封のあとは、弟の三男定綱が継承しました。これ以降、定綱の系譜が桑名藩を治めていきます。
野村事件により事実上の左遷
ところが、桑名藩3代目の定重の時に事件が起きてしまいます。定重は50年以上にわたって藩主を務めた人物ですが、藩内で災害が頻発した時代でもありました。藩の財政が窮乏する事態を受け、定重は藩政改革に乗り出します。そこで、下級武士から郡代(地方行政官)に抜擢したのが野村増右衛門でした。
野村は抜群の才覚を発揮して改革を断行したのですが、いつの時代でも「出る杭は打たれる」と言われます。野村が私腹を肥やしていると、家老たちが訴え出た結果、桑名藩は野村とその一族を死罪に処すという過酷な処罰を行ったのです。
この事件が幕府の耳に入ります。桑名藩の不始末を見逃すわけにはいかなかったのでしょうが、家康に通じる家柄の久松松平家を取り潰すほどの事件でもありません。結局、幕府が下した裁定は、高田藩(新潟県)への転封という事実上の「左遷」だったのです。
高田藩から白河藩へと転々
久松松平家が高田藩を統治したのは、わずか31年でした。このころは、徳川吉宗による享保の改革の最中で、高田藩でも質素倹約を旨とした政策が取られていました。隣接する天領では農民たちが暴動を起こす事件が起きますが、時の藩主だった定輝は、幕命を受けて鎮圧と首謀者の処罰にあたりました。
定輝のように、幕府から一定の信頼を得ていた久松松平家ですが、高田藩5代藩主の定賢の時に降ってわいたような転封の話が舞い込んできます。
姫路藩主の榊原政岑が享保の改革に逆らって豪遊していたとして隠居させられ、榊原家は懲罰的な意味合いで高田藩への転封が決まりました。姫路藩には白河藩(福島県)の越前松平家が入り、玉突きの形で久松松平家が白河藩へ移ることになりました。
榊原家は左遷ですし、越前松平家には栄転とされる転封でしたが、久松松平家にとっては左遷とも栄転とも言えない転封で、引っ越しのための費用がかさむという点で、財政的な苦労は多かったのではないでしょうか。
松平定信が養子となったことで・・・
白河藩の久松松平家は、3代目藩主に定信が就きました。松平定信といえば、寛政の改革を実行した人物として有名で、そもそもは徳川吉宗の孫にあたり、一時は将軍候補にもなった人です。白河藩2代藩主の定邦が、自分の娘の相手として定信を養子に迎え入れることにしました。
久松松平家にとって、定信の存在が非常に大きな意味を持つことになります。老中を退いてからは藩政に尽力し、隠居後も「改革の実行者」というネームバリューは健在でした。やがて定信は、久松松平家の悲願である桑名藩復帰を目指していきます。
家督を継いだ定永の代に三方領地替えが行われ、桑名の奥平松平家が忍藩(埼玉県)へ、忍の阿部家が白河藩へ、そして久松松平家が桑名藩への転封となります。久松松平家にとっては113年ぶりの「古巣復帰」がかなったのです。
定永の桑名藩入りは文政6年(1823)で、以後、久松松平家が明治維新まで桑名藩を治めていきました。
おわりに
江戸時代の大名家は、藩内の騒動や後継者不在という事態が起きると、お家断絶の危機に直面します。実際に取り潰されてしまった大名家は枚挙にいとまがありません。江戸時代を生き抜いて明治維新を迎えることが、いかに大変だったかが分かります。久松松平家の悲喜こもごもなお国替えを見てくると、現代社会の人事往来に通じるものがあるなあと、つくづく実感させられます。
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