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北条家の大長老として「たすき」をつないだ北条政村
- 2023/12/11
日本の歴史上で最大級の国難として、鎌倉時代の「元寇」を上げる方も多いでしょう。幕府の執権・北条時宗の指揮のもと、大陸からの大軍を2度退けた戦いとして知られていますが、その時宗の若き日を支えたのが北条家の大長老だった北条政村(ほうじょう まさむら、1205~1273)でした。
北条政村とは、いかなる人物だったのでしょうか。
北条政村とは、いかなる人物だったのでしょうか。
執権後継に担ぎ上げられた政村
源頼朝ら源氏将軍が絶えたあと、鎌倉幕府で実権を握っていたのが北条氏でした。幕府の最高指導者は執権と呼ばれ、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主役となった北条義時が、事実上の最初の執権と言われています。義時の次の執権は、嫡男である泰時が最有力候補でした。しかし義時の死後、未亡人となった伊賀の方が「自分の子こそが執権にふさわしい」と、当時20歳だった政村を一族とともに担ぎ上げました。
この企ては、尼将軍の北条政子によって打ち砕かれ、伊賀の方は流罪となります。担ぎ上げられたとはいえ、政村も同罪になっておかしくなかったのですが、泰時の計らいで罪を免れました。このことで、政村は「泰時に尽くす」と腹を決めたのでしょう。
一貫して得宗家を支え続けた政村
執権の座は、泰時の系譜によって引き継がれ、それが「得宗家」となるわけです。泰時の後は、孫の経時が継ぎ、経時が若くして亡くなると、その弟である時頼が継いでいきます。経時、時頼と年齢の若い執権が続いたことで、前将軍の陰謀が絡む一族間の権力争いや最大の御家人だった三浦氏との戦いが勃発します。この間、政村は異母兄である重時と並ぶ長老格として得宗家を支え続けてきたのです。
時頼は在位10年で執権職を退く決意をするのですが、嫡男である時宗はまだ幼く、執権を継がせるまでの「つなぎ役」が必要となったのです。
そこで次の執権には重時の子である長時を指名し、政村には幕府のナンバー2である連署を任せることにしました。政村に対する信任の厚さがうかがえます。
60歳を超え、ついに執権に就任
長時が執権となってから8年後の文永元年(1264)、長時が病に倒れて執権職が継続できなくなります。次期執権に本来の後継者である時宗を推す声もあったでしょうが、さらなる「つなぎ役」が必要だとの判断となりました。その結果、連署だった政村が就くことに。伊賀の方によって担ぎ上げられた時から約40年後、ついに母の悲願であった執権となったのです。しかし、政村は決して「権力者のトップに立った」と思ったわけではありません。サポート役のはずの連署に、異例とも言える14歳の時宗が就いており、「自分はつなぎ役に過ぎない」ことをしっかり自覚していました。
執権政村と連署時宗のコンビは孫と子のような関係でした。時宗は、間近で政村の執権としての仕事ぶりや決断の難しさを肌で感じられたことで、後に「国難を乗り切った名執権」と呼ばれるようになる素養を育んだと言ってもいいでしょう。
おわりに
1268年、蒙古から臣従を促す内容の国書が届きます。かつてない国難が予想されるなかで、北条政村は執権職を得宗家嫡男である時宗に任せます。北条一門の大長老として、満を持して「たすき」をつないだのです。執権を退いた政村でしたが、そのまま引退したのではなく、再び連署に就きます。元寇という重大事の直前まで時宗を支えてきた政村の生涯は、鎌倉幕府と北条一族を守り続けた人生だったと言えるでしょう。
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