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武士として生きたかった近藤長次郎の無念な運命

 幕末の風雲児・坂本龍馬が設立した亀山社中で、実務者として手腕を振るった近藤長次郎という若者がいました。

 龍馬よりも3歳年下の長次郎は、亀山社中(のちの海援隊)を背負っていくべき人材だったはずでしたが、明治の世を見ることなく自ら命を絶ちました。

 長次郎はなぜ死ななければならなかったのでしょうか。

近藤長次郎の生い立ち

 近藤長次郎は天保9年(1838)、高知城下にある饅頭(まんじゅう)屋の長男として生まれました。

 幼い時から学問に親しんでいた長次郎は、家業の饅頭を売りながら読書にいそしんでいたといい、仲間からは「饅頭屋長次郎」と呼ばれていたそうです。

 長次郎は17歳の時に、思想家で画家の河田小龍の門下生となりました。坂本龍馬も小龍のもとで国際情勢を学んでいたことがあり、その時に長次郎と知り合ったのではないでしょうか。

 文久2年(1862)に幕臣である勝海舟の門下に入りますが、この年には龍馬も脱藩し、勝の弟子になっています。これ以降、龍馬と長次郎は行動を共にするようになります。勝が設立に携わった神戸海軍操練所にも、龍馬と一緒に入門したのです。

 操練所時代に名字帯刀を許されたといい、「饅頭屋のせがれ」は名実ともに武士となりました。ただ、そのことが後の悲劇を生んだとも言えるのです。

亀山社中で活躍する長次郎

 操練所が閉鎖され、龍馬ら訓練生の一部は、勝の周旋によって薩摩藩の庇護を受けます。訓練生たちは自立の道を歩んでいくために薩摩藩の出資を得て、海運事業を担う「亀山社中」を設立し、長崎に拠点を置きます。

 長次郎は設立当初からのメンバーで、秀才の誉れ高かった彼が実務にたけていたことは想像に難くありません。

 そんな長次郎に大仕事が回ってきました。薩摩藩の名義で軍艦ユニオン号を亀山社中が購入し、その軍艦を長州藩に引き渡すという仕事です。薩摩、長州の藩士たちとの交渉役だけでなく、商社マン顔負けの巨大な取引を担いました。

 商取引を通じて、薩摩と長州の結びつきを深め、やがて薩長同盟につなげようという龍馬の目論見を、忠実に実行した長次郎の功績は極めて大きかったと言えるでしょう。

長次郎を襲った悲劇

 ユニオン号購入の取引で、グラバー商会のトーマス・グラバーとも親しい間柄になった長次郎は、グラバーに「イギリス留学を希望している」と告げます。もしかすると、河田小龍の弟子だったころから海外留学を夢見ていたのかもしれません。

 グラバーは快く引き受け、イギリスへ向かう船に乗る手はずまで整えてくれました。誰にも告げない密出国になるわけですが、向学心に燃える長次郎の気持ちは揺るぎなかったと思われます。しかし、天候不良のため予定日に出航できなかったのです。

 社中に戻ってきた長次郎に対し、仲間たちは「何事も相談してから物事を決める」という隊規に違反したとして責め立てます。違反者は武士らしく切腹するのが決まり・・・長次郎は、自らの非を認めて潔く腹を切りました。慶応2年(1866)、享年28歳でした。

おわりに

 近藤長次郎が切腹した時、坂本龍馬は不在でした。のちに龍馬は「自分が居たら、長次郎は死なずに済んだ」と後悔したと言われています。一方で龍馬は「術数が多すぎるわりに至誠が足りないから身を滅ぼした」とも書き残しています。

 長次郎はもともと武士出身ではありませんでしたが、自らの努力と才覚によって武士の身分を勝ち取り、それを誇りに思っていたのでしょう。明治という新しい時代が到来しようとするなかで、武士にこだわり続けてしまったのが、長次郎最大の悲劇だったのです。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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