「鎌倉殿」源頼朝を狙ったテロリストたち ──悪七兵衛景清から鎌倉潜入の平家残党まで
- 2023/02/28
「鎌倉殿」源頼朝は何度か生命の危機に遭っています。平治の乱の敗戦後の逮捕(1160年)、実子・千鶴丸殺害後の伊東祐親の襲撃計画(1175年ごろ?)、石橋山の敗戦(1180年)、曽我兄弟の仇討ち(1193年)と大事件での具体的な危機がありました。このほかに平家残党の刺客による暗殺未遂事件がいくつかありました。頼朝を狙ったテロリストたちを紹介します。
「悪七兵衛景清」孤高のテロリスト
源頼朝を狙ったテロリストとして多少知名度があるのは悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)です。歌舞伎を見る人なら「多少どころか超有名だ」と言うかもしれません。本来の名は、藤原景清です。「悪七兵衛景清」は異名。兵衛尉(兵衛府の3等官)の官職を持ち、藤原忠清の七男(実際は四男)で、勇猛さを強調する「悪」を冠して「悪七兵衛」です。
「平景清」とも呼ばれますが、平家の有力家臣として一門同様に扱われ、平姓の名乗りを許されたためで、本姓は藤原氏。平将門を討った名将・藤原秀郷の子孫で、名門武家を多数輩出した秀郷流藤原氏の一門です。
暗殺失敗し流罪、牢破りの荒事も
藤原景清は、壇ノ浦の戦い(1185年)での平家滅亡後も頼朝の命を狙っているといい、鎌倉勢は躍起になって行方を捜します。景清の愛人で五条坂の遊女・阿古屋(あこや)を連行。容赦なく拷問にかけようとしますが、情けを知る武士・畠山重忠は琴、三味線、胡弓を演奏させて調べます。実はこれ、歌舞伎『壇浦兜軍記』(通称「阿古屋」)の話。景清は頼朝暗殺に失敗して自ら目をえぐり、孤島に流されました。遊郭に身を売った娘・糸滝がお金を手にはるばる京から会いに来ますが、景清は追い返します。仕方なく糸滝は里の人に手紙と金を託して帰ります。娘の実情を知った景清が追いかけますが、船は既に出航し……。これは歌舞伎『嬢(むすめ)景清八島日記』(通称「日向島」)の話です。
人形浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門(1653~1725)が『出世景清』を創作し、景清の知名度は歌舞伎をはじめ、人形浄瑠璃、能、謡曲など古典芸能によるところが大きく、牢破りの荒事は歌舞伎の見せ場になっています。この影響で全国各地に伝説の地があり、言い伝えがあります。
頼朝を狙う孤高のテロリスト。これが景清のイメージです。ただ、平家滅亡後、景清が実際にどう動いたのか実はよく分かっていません。
怪力!錣引き 壇ノ浦では戦線離脱
イメージの基は『平家物語』。怪力で勇猛、気性も荒いという藤原景清の基本設定が描かれています。まずは「錣(しころ)引き」。元暦2年(1185)2月、屋島の戦いで、景清は源氏方の三保谷(美尾屋)十郎の兜の錣を引きちぎる怪力ぶりを発揮しました。錣とは、兜の左右、後方に垂れ下がって首筋を覆う部分です。
続く3月24日、最終決戦の壇ノ浦の戦い。景清は平家軍総司令官・平知盛(清盛の四男)や同僚の前で言い放ちます。
「坂東武士は馬上でこそ偉そうな口をたたきますが、船の戦いはどうでしょうか。魚が木に登ったようなもの。一人一人捕まえて海に沈めてやりましょう」
「その小冠者(源義経)、気だけは強くても何ほどのことがあろう。脇に挟んで海に沈めてやるわ」
そして平家軍が敗れ、平知盛ら名立たる武将が入水自殺を遂げるなか、景清ら4人の武将が戦線離脱。命惜しさの逃亡ではなく、復讐戦の機会を狙ったと解釈され、伝説が生まれていくのです。
「藤原忠光」景清の兄、鎌倉に潜入
『平家物語』によると、壇ノ浦の戦いで戦線離脱したのは4人。藤原景清のほかに、景清の兄「上総五郎兵衛」藤原忠光(ふじわらのただみつ、上総介・藤原忠清の五男。実際は次男か三男)、景清の従兄弟「飛騨四郎兵衛」藤原景俊(ふじわらのかげとし、飛騨守・藤原景家の四男)、「越中次郎兵衛」平盛嗣(たいらのもりつぐ、越中守・平盛俊の次男)です。それぞれ歴戦の勇士。景清、忠光の父・藤原忠清は富士川の戦い(1180年)では水鳥の羽音で撤退した不名誉がありますが、常に平家軍の戦闘指揮官として戦ってきました。若いときは「伊藤五」(伊勢の藤原氏の五男)とも呼ばれ、保元の乱(1156年)では源為朝の矢をまともに受けています。藤原景俊の兄・藤原景高は以仁王を討った戦功などがあり、平盛嗣は平清盛の腹心・平盛国の孫。代々平家軍を支えてきた猛将の家の者たちです。
短刀忍ばせ、工事現場で待ち伏せ
『吾妻鏡』によると、建久3年(1192)1月21日、源頼朝が工事中の永福寺を訪れたとき、土石を運ぶ者の中に怪しい男がいたので御家人に逮捕させました。左目に魚のうろこをかぶせ、余計に目立つ変装をした男は、懐に約30センチの短刀を忍ばせていたのです。尋問にあっさり答えました。「自分は上総五郎兵衛(藤原忠光)。鎌倉殿を狙って数日間、鎌倉を徘徊していたのだ」
共犯者はいないとしながらも
「越中次郎兵衛(平盛嗣)は昨年、丹波に隠れ住んでいた。同じ志を持っているだろう。今はどこにいるか知らない」
余計なことまで白状しているようにも思えますが、頼朝暗殺が簡単に成功するはずもなく、むしろ、平家の復讐心の強さをアピールしたかったのかもしれません。藤原忠光は2月24日、斬首となりました。
「平盛嗣」勇士は二君に仕えず
平盛嗣は建久5年(1194)、但馬国で逮捕されました。『平家物語』にその状況が書かれています。平盛嗣は正体を隠して気比(けひ)道弘という武士の婿になっていましたが、夜中に馬上で弓を引き、海を馬で2キロ超を泳ぐなどして周囲に怪しまれます。怪しまれて当然の特別訓練です。源頼朝は但馬の武士・朝倉高清に逮捕を命じます。気比は朝倉の婿。相談のうえ、風呂場で取り押さえることにして5、6人送りましたが、全く歯が立ちません。そこで20~30人を一斉に突入させ、太刀の峰や長刀の柄でさんざんにたたいて、ようやく逮捕しました。
テロリストに助命を提案する頼朝
鎌倉に護送された平盛嗣は、頼朝の面前に引き出され、暗殺の機会を狙って武器を準備していたことなどを隠さず話します。頼朝は平盛嗣の潔さに感心しました。頼朝:「志は大したものだ。この頼朝に仕えるなら命は助けるが、いかがか」
盛嗣:「勇士は二君に仕えず。盛嗣ほどの者を助けたら必ず後悔しますぞ。ご恩をかけるなら早く斬首なさい」
平盛嗣は鎌倉・由比ガ浜で斬られました。『平家物語』は「褒めない者はいなかった」と書いています。
なお、平盛嗣は屋島の戦いでは源義経の軍勢と悪口を言い合う挑発合戦を延々繰り広げ、壇ノ浦の戦いでは「どうせなら敵の大将・源九郎(義経)と組みなさい。色白で背が低く、出っ歯なので見分けがつくだろう」と藤原景清を挑発。ややくどい、悪乗り男でした。
東大寺再建供養でも狙われていた
建久6年(1195)年、源頼朝ら鎌倉武士は大挙して上京。東大寺再建供養で参詣します。『平家物語』によると、3月12日、東大寺で源頼朝が怪しい男を見つけ、梶原景時が逮捕しました。男は「薩摩中務家資」と名乗ります。平家残党の平家資です。「万が一にも(頼朝を暗殺する)機会があるかと思って狙っていました」と白状。ここでも頼朝はテロリストに「志は大したものだ」と同情を寄せますが、結局、六条河原で斬られます。
なお、『吾妻鏡』では、同年4月1日、京で前中務丞・平宗資父子が逮捕。平家資と平宗資は同一人物との見方が有力です。
「左中太常澄」テロリストが名刺持参
養和元年(1181)7月20日、鶴岡八幡宮の上棟式で、源頼朝が大工に与える馬を源義経に引かせ、頼朝と義経の関係を示すエピソードとして注目されることがあります。問題はその後です。鶴岡八幡宮で頼朝の背後に…
儀式が終わって退出する頼朝の背後に身長210センチの大男が忍び寄ります。御家人・下河辺行平が取り押さえ、御所で取り調べ。直垂(ひたたれ)の下に鎧を着用し、髻(もとどり)に札をつけ、名も記してありました。〈安房国故長狭六郎常伴の郎党・左中太常澄〉
名刺持参のテロリストです。
左中太常澄:「是も非もない。斬首されよ」
下河辺行平:「さらし首は当然である。ただしその理由を(頼朝が)お知りにならないと、お前もかいがなかろう。早く申せ」
下河辺行平の追及に左中太常澄は答えます。前年の治承4年(1180)9月3日、安房で頼朝の宿舎を襲撃しようとして三浦勢に討たれた長狭常伴の恨みを晴らすため鎌倉に潜入して様子をうかがっていたのです。そして、失敗したとき、復讐の意思を世に知らせるため、髻に札を付けていたのです。
おわりに
平家残党の源頼朝暗殺はことごとく失敗しますが、鶴岡八幡宮、永福寺、奈良・東大寺と、さまざまな場面で暗殺計画が渦巻いていたことになり、何よりも本拠地・鎌倉にも刺客が潜入していたことは、組織を失った平家残党の本気度をうかがわせます。また、成功の可能性は低いにしても、平家の意地だけでも示すことが目的だったのかもしれません。その失敗した刺客たちの悲劇が「悪七兵衛景清」の伝説として集約し、江戸時代の歌舞伎などに受け継がれていくのです。
【主な参考文献】
- 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
- 梶原正昭、山下宏明校注『平家物語』(岩波書店)岩波文庫
- 渡辺保『増補版歌舞伎手帖』(KADOKAWA)角川ソフィア文庫
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