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流転の末に加賀前田家の重臣となった本多政重の数奇な運命
- 2023/08/28
戦国末期から江戸時代初期にかけて、数々の大名の間を渡り歩いた武将がいました。その名は本多政重。父は徳川家康の懐刀と言われた本多正信です。謎多き人生を歩んだ政重が、最後に落ち着いた先は加賀前田家でした。その流転ぶりをたどってみましょう。
流転の前半生だった政重
本多政重は、天正8年(1580)に本多正信の次男として生まれました。正信は智謀の将として力を発揮し、徳川家康に重用された人物。関ケ原の合戦後は、長男の正純とともに徳川幕府の草創期に絶大な権力を持つことになります。徳川家の表舞台にいた正信や正純と異なり、政重は慶長2年(1597)に徳川秀忠の乳母の子を切り殺すという事件を起こし、徳川家から出奔します。以来、政重は徳川家とは離れたところで人生を歩むことになるのです。
関ケ原の合戦では、家康の敵だった西軍の宇喜多秀家の家臣として東軍と戦いました。宇喜多家が滅亡したため、しばらく姿を消していましたが、やがて福島正則に仕官し、さらに前田利長に召し抱えられたのです。
宇喜多、福島、前田といえば豊臣家恩顧の大名であり、政重が大名間を転々としていたことから、「徳川家のスパイだった」との説があるほどです。
直江兼続の跡継ぎになったが
慶長9年(1604)、政重に養子縁組の話が持ち込まれました。相手は、上杉景勝の重臣である直江兼続です。兼続には当時11歳になる長男がいましたが、あえて政重を養子に迎えようとした理由は、彼が本多正信の子だったことにほかなりません。上杉家は関ケ原の合戦後、家康に敵対したとして改易処分も検討されました。お家存続のために兼続は奔走しますが、その交渉相手が正信だったのです。上杉方の状況を知りたい正信と徳川家とのパイプを作りたい兼続・・・双方の利害が一致した養子縁組なのです。
政重は、兼続の娘と結婚して直江勝吉と改名します。兼続は優れた政治家であり、実業家のセンスを持った人物でした。政重は、兼続の執政を目の前で見て、学ぶことができたので、後の人生で大いに役立ったことでしょう。
加賀前田家で重用される
ところが、慶長16年(1611)に政重は出奔し、上杉家を離れるのです。兼続の実子が成人になったからかもしれませんし、ほかの事情があったのかもしれません。出奔した政重を迎え入れたのは、兼続の養子になる前に仕えていた加賀前田家でした。徳川家としたら、外様最大の大名である前田家との関係を保ちつつ、内情を探りたいという思惑があったのではないかとされています。
一方の前田家は、徳川幕府との関係性もさることながら、政重の人物を高く評価していたようです。前田利長が隠居し、年若い弟の利常が藩主の座に就いていたころで、兼続の薫陶を受けた政重は、必ず前田家の役に立つだろうと、利長は考えたに違いありません。
このころは、豊臣秀頼が大坂で反徳川の勢力を集めつつあり、徳川幕府は外様大名に厳しい視線をおくっていました。政重は、若き利常を支えながら懸命に藩政を担い、幕府との交渉役としても尽力し、加賀百万石を守り抜く原動力の一人になったのです。
おわりに
加賀藩には「八家(はっか)」と呼ぶ大名クラスの家臣がいましたが、本多政重を初代とする本多家は藩の重臣として5万石という破格の待遇を得ていました。加賀藩に対する政重の功績が大きかったことを物語っていると言ってもいいでしょう。加賀本多家は幕末まで前田家を支え続けてきました。受け継がれてきた武具など貴重な資料は、石川県金沢市にある加賀本多博物館に収蔵展示されており、政重から続く本多家の歴史を今に伝えています。
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