※ この記事はユーザー投稿です

忠義と忠孝を見せつけた楠正成の子・正行とは何者か

『楠正行弁の内侍を救ふ図』に描かれた楠正行(水野年方 画、出典:wikipedia)
『楠正行弁の内侍を救ふ図』に描かれた楠正行(水野年方 画、出典:wikipedia)
 河内地方(大阪府)の小豪族ながら後醍醐天皇の忠臣として仕え、足利尊氏軍との湊川の戦いで壮絶に散った楠正成。決死の覚悟で戦におもむく父親を見送ったのが、子の正行(まさつら)でした。

 父親の後姿を見て育った楠正行の忠義と忠孝とは、どのようなものだったでしょうか。

父の武勇を聞いて育つ

 楠正行は、楠正成の子だったことは分かっていますが、正確な生年は伝わっていません。正中3・嘉暦元年(1326)ごろではないかと言われています。

 元弘元年(1331)、討幕を決意した後醍醐天皇が笠置山で挙兵した際、はせ参じた正成は、所領に戻って鎌倉幕府に反旗をひるがえし、赤坂城に立てこもります。幼少だった正行の消息は不明ですが、幕府の手が及ばないところにかくまわれていたと思われます。

 正成は赤坂城を脱出して潜伏したのち、元弘3年(1333)には千早城で籠城戦をします。幕府軍が小城を陥落させられなかったことで、各地の反幕府軍が立ち上がり、やがて倒幕への大きなうねりとなっていくのです。

 父の武勇を伝え聞いていた正行は、子供心に頼もしく思ったに違いありません。そして、自分の進むべき道も、天皇に仕える忠義の臣であるべきだと決意したことでしょう。

父との「桜井の別れ」

 後醍醐天皇による親政には、足利尊氏をはじめとする武士たちが不満を持っていました。やがて、尊氏中心の足利軍と後醍醐天皇の命を受けた新田義貞軍との戦いが繰り広げられ、楠正成も義貞と合流し、足利軍と戦うことになるのです。

 足利軍はいったん西国に落ちのびますが、反転攻勢をかけて京を目指して進軍してきます。足利軍の勢力は日に日に増していきましたが、それを阻止すべく立ち上がったのが正成でした。ただ、軍勢の差は歴然としていたのです。

 このころ、10代半ばになっていた正行も従軍していました。正成は、我が子を死出の旅路に連れていくわけにはいかないとして、河内へ帰るよう命じます。正行は父の思いをくみ取り、泣く泣く命に従いました。建武3年(1336)、湊川の戦い前のことでした。

 この場面が、軍記物語「太平記」で「楠親子 桜井の別れ」として長く語り継がれてきたのです。

南朝方で奮戦する正行

 桜井の別れ以降、正行は雌伏の時を過ごすことになります。南北朝騒乱に突入していたころでしたので、足利軍も楠一族に対する残党狩りまで手が回らなかったと思われます。

 青年武将となった正行は南朝方に身を投じ、正平2年(1347)に父の遺志を継ぐかのように足利軍(細川顕氏、山名時氏ら)へ戦いを挑みます。劣勢だったのにもかかわらず、足利軍を撃破して武勇ぶりを世に知らしめたのです。

 戦上手だった楠正成の子ということで、尊氏は主力である高師直と師泰を派遣し、大軍で正行軍を押しつぶしてしまおうと考えました。正行は父同様、決死の覚悟で戦いに臨む決意を固め、後村上天皇(後醍醐天皇の子)に暇乞いをして出陣します。

 正平3年(1348)、足利軍を迎え撃った四条畷の戦いは激戦となり、敵陣深くまで攻め入った正行軍は、師直の首を取ったかにみえました。しかし、それは影武者のもので、あと一歩のところで師直を討ち取ることができませんでした。

 正行は、弟の正時と刺し違えて自決し、20代前半の若さで戦場に散ったのでした。

楠正行墓所の大楠(四条畷市)
楠正行墓所の大楠(四条畷市)

おわりに

 時代は下って明治36年(1903)、楠正成と正行をテーマにした唱歌「桜井の訣別」が作られました。歌詞には「天皇への忠義を尽くせ」という思いとともに、父親と母親への「忠孝」の心が切々とつづられています。

 四条畷の戦いの前、暇乞いをする正行に対し、後村上天皇は「お前は股肱の臣なので、決して死んではならぬ」と声をかけたといいます。親子2代で南朝に忠義を尽くしてきた正行は、この言葉がどんなにか嬉しかったことでしょう。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。