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女性の職業の歴史 女中からパイロットまで
- 2024/07/24
明治時代以前は「女性は家を守るもの」とされ、外で働くことが忌み嫌われていましたが、時代が下がるにつれて、女性の社会進出も少しずつ進んでいきました。
現在と違って女性の職業が限られていた中でも、彼女たちは案外、さまざまな場所で働いていたのです。
現在と違って女性の職業が限られていた中でも、彼女たちは案外、さまざまな場所で働いていたのです。
憧れの職業
モデルや客室乗務員は女性の憧れの職業です。これらの職業は大正時代から存在し、当時も人気がありました。そんな彼女たちの活躍は、婦人雑誌の記事として取り上げられるほどでした。マネキンガール
マネキンガールは、今のモデルと販売員をあわせたような職業です。デパートなどで着物や洋服を実際に着用してポーズをとったり、商品の説明を行ったりしました。マネキンガールは組合事務所に属し、ファッションショーや婦人雑誌の撮影などをあっせんしてもらいました。いまでいうモデル事務所ですね。このあたりは今も昔も変わりません。
良くも悪くも注目を集める職業でしたが、マネキンガールを花嫁候補にするのに難色を示す家庭もあったとか…。
エアガール
今でも憧れの職業である客室乗務員は、戦前にも存在していました。昭和初期に日本の航空機産業が始まり、日本国内はもとより、中国や朝鮮半島への旅客路線や、郵便航空事業などが発達していきます。
そんな中、各航空会社では機内サービスを行う女性の客室乗務員を採用、彼女たちは「エアガール」と呼ばれ、その様子は当時の絵葉書にも描かれました。
また、自らも飛行機を操縦する女性パイロットも現れます。彼女たちの活躍は朝ドラ『雲のじゅうたん』のモデルにもなりました。
日常を支える職業
交通機関や商業施設では、女性が接客する職業についていました。また、家事全般を担う女中は、学歴や資格がなくても働けるため、当時の女性の一般的な職業でした。バスの車掌
バスや電車など近代交通機関では、いち早く女性を採用していました。なかでもバスの車掌は女性が多く、切符を売ったり、ガイドをしたり、田舎のバスでは買い物を頼まれたりと、日常に欠かせない職業でした。女性車掌は戦前から活躍し、女性の職業としては高給取りだったため、人気の職業でした。昭和の映画でも、ヒロインの職業としてバスの車掌が多かったのだとか。
しかし、そのため競争率も高く、作家の林芙美子さんもバスの運転手を目指したそうですが、採用されなかったそうです。
女中
戦前の家事労働はとにかく大変で、かまどで火をおこして料理をつくるだけでも一苦労でした。そのため人手が必要でしたし、賃金が安いので、中流家庭でも女中を雇っていました。真面目な女中たちは、奥さんから着物のお古をもらったり、嫁入り先を紹介してもらったりと、雇い主と友好な関係だったようですが、中には家の物を盗むといった手癖の悪い女中もいたそうです。
また、歴史の影でも女中たちは活躍します。昭和の二・二六事件では、女中たちが岡田啓介首相を部屋の押入れにかくまい、秘書との連携で無事、首相を助け出すきっかけになりました。
男性相手の職業
男性相手の夜の職業も、近代化と共に変化していきました。芸者や女郎だけでなく、ダンスやお酒をサービスする女性もいたそうです。カフェーの女給
昔のカフェー女給は、現在のカフェ店員とはまったく違う職業でした。店によっては、男性にお酌をするなどのサービスを行っていたため、今のスナックに近い感覚でした。女給は、夜の仕事よりも気軽に高給を稼ぐことができ、都会の店では文化人との恋愛を楽しむ人もいた、華やかな職業でした。作家の林芙美子さんも若い頃にカフェーで働いていて、その経験をもとに『放浪記』を書いたそうです。
ステッキガール
昔は銀座をぶらぶらと散歩することを「銀ブラ」といいました。しかし、せっかくの銀ブラも一人では寂しい…。そんな需要に答えたのがステッキガールです。独り歩きの男性のお供で散歩をする職業でした。接客業の「同伴」に近いものかもしれません。まとめ
ほかにも、当時の女性の職業としてはタイピストやデパートの販売員などが人気でした。しかし、男女雇用機会均等法などない時代でしたので、女性がいくら働いても、男性並の給料をもらうことはできませんでした。それでも「女性が外で働くのは恥」と呼ばれた時代から、戦争や高度経済成長をへて、女性が働くのが当たり前になっていったのです。
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