「香川親和」後継者に指名されず、ショック死だった? 長宗我部元親の二男の生涯

 四国に一大勢力を築き上げた長宗我部氏ですが、大坂の陣(1614~15)の後、長宗我部元親の四男・盛親の代で滅亡しています。

 ただ、家督継承に関しては、元親嫡男の信親が戸次川の戦い(1587)で討ち死にしたため、本来ならば、後継者は盛親ではなく、長宗我部元親の二男である「香川親和(かがわ ちかかず)」のはずです。しかし、彼は長宗我部氏の当主になることなく、21歳の若さで謎の死を遂げています。

 はたして香川親和とはどのような人物だったのでしょうか? その生涯についてお伝えしていきます。

元親の二男として誕生

 香川親和は、長宗我部元親の二男として、永禄10年(1567)に誕生しました。2歳上にはその聡明さを元親に愛された嫡男の長宗我部信親がいます。また5歳下には三男の津野親忠、8歳下には四男の長宗我部盛親がいました。

 親和が生まれた頃の元親は、土佐国の戦国大名のひとりとして、宿敵である本山氏としのぎを削っている最中です。長きに渡る戦いの末、本山氏が元親に降伏したのは、永禄11年(1568)または、元亀2年(1571)と伝わっています。

 また、長宗我部氏の主家にあたる一条氏は、伊予国に侵攻し、中国地方の最大勢力・毛利氏の助力を得た河野氏に敗れ、没落していくのです。その一条氏を追い落とし、天正3年(1575)に元親は土佐国を統一しました。親和はまだ幼少期だった頃です。

讃岐国の名家、香川氏の嗣養子となる

 長宗我部氏の領土拡大の戦略としては、有力豪族のもとに兄弟や子を嗣養子として送り込み、吸収合併してしまうというものがあります。元親の弟は吉良氏、香宗我部氏の名跡をそれぞれ継いでいます。

 元親の二男である親和も同じように他家の嗣養子に出されています。そこは、讃岐国の豪族である香川氏でした。

 香川氏は管領・細川氏の四天王に数えられるほどの権勢を誇り、代々讃岐国の守護代を務めた名家です。しかし、細川氏が衰退し、三好氏が台頭してくると、一時期はその支配下に入りました。やがてその三好氏とも対立するようになり、讃岐国で独立状態を築きました。

 そこに侵攻してきたのが土佐国を統一した元親でした。元親は破竹の勢いで讃岐国の諸城を制圧していきます。天正6年(1578)、香川氏当主である香川之景(信景)は、親和を嗣養子として受け入れることで元親と和睦します。

 こうして親和は、之景の娘を正室に迎え、香川氏当主の通名である香川五郎次郎を名乗ることになるのです。

信長・秀吉との対立

 その後、元親の四国統一は順調に進んでいきましたが、その行く手を阻んだのが、中央で大きな勢力となっていた織田信長でした。

 元親と信長は同盟を結んでいた時期もありましたが、四国における三好氏の勢力が脅威でなくなると、関係が冷え込みます。四国を統一した後の元親と毛利氏が手を結ぶことを信長が危惧したためという説が有力です。

 天正8年(1580)、信長は元親の所領を土佐国と阿波国南半分だけを認める代わりに、臣従するように要求しました。伊予国や讃岐国にも領土を拡大していた元親は当然のようにこれを拒絶します。そして信長と元親は敵対関係になるのです。


 天正10年(1582)、信長は三男の織田信孝を総大将として、四国攻めの準備に移りますが、ここで本能寺の変が起き、中央は大混乱となったのです。元親はすぐに四国統一の兵を動かします。

 讃岐国の親和は、細川四天王の一角であった香西氏を攻め、降伏によって藤尾城を陥落させ、1万の軍勢で三好氏側の十河城を包囲しています。しかし陥落させることはできず、翌月には長宗我部軍とも合流し、3万を超える軍勢で十河城を攻めましたが、やはり陥落させることはできませんでした。

 十河城が陥落したのは、天正12年(1584)のことになります。そして翌年には四国をほぼ手中に収めた元親でしたが、中央の混乱を鎮めた秀吉が10万の軍勢を四国に送り込み、元親の領土を侵攻したため、元親は降伏。土佐国のみの所領を許されることになったのです。香川氏も改易となり、20歳の親和は天正14年(1586)、土佐国に帰国しています。


元親の後継者を巡る争い

 秀吉の配下となった元親は、九州征伐(1586~87)に兵を出しました。元親は嫡男である信親と共にこの九州征伐に従軍しています。先発隊の総大将は、仙石秀久でしたが、敵方である島津氏の策略にはまり大敗。この戸次川の戦いで信親は戦死してしまいます。

 かろうじて帰国した元親でしたが、将来を期待していた信親の死はかなりのショックだったようで、ここから長宗我部家中は後継者を巡る問題で大きくもめるのです。

 信親への愛着を捨てきれない元親は、信親の娘を正室に迎えた者に当主の座を譲るつもりだったのでしょう。こうして香川氏の嗣養子となっている親和や津野氏の嗣養子となっている津野親忠は長宗我部氏当主の候補から外れてしまいました。

 秀吉は元親に宛てて朱印状を書き、後継者は二男の親和とするようにと命じていますが、元親はこの指示に従いませんでした。四男の盛親は、兄の娘、すなわち姪を正室に迎えることで、長宗我部氏の当主となったのです。元親が存命中は二頭政治が行われていたようです。

病没の原因は何なのか?

 それでは長宗我部氏の当主になれなかった親和はどうなったのでしょうか? 土佐国に帰国した後、親和は病気となり、岡豊城で療養していたようですが、天正15年(1587)に病没しています。この死因には様々な憶測があります。当主になれなかったショックで亡くなったというものや、断食の末、自ら命を絶ったというもの、元親が後顧を憂いて毒殺したという説まであるほどです。

 なぜか親和の遺体は長宗我部氏の墓ではなく、山麓の小さな墓石の下に葬られたと伝わっています。最期にはそこまで元親に疎まれる存在になってしまっていたのでしょうか?

おわりに

 讃岐国で勢力拡大に尽力した親和でしたが、香川氏が改易され、長宗我部氏の領土が土佐国のみとなると、身の置き場に困ったかもしれません。さらに秀吉から家督相続を保証されているにもかかわらず、実の父である元親に拒否された親和の心中を察すると忍びないものがあります。仮に自暴自棄になってしまったとしても仕方なったのではないでしょうか。

 嫡男である信親が生きていれば、おそらく長宗我部の家中はここまで揺れ動くことはなかったはずです。再興に向けて一致団結できていたかもしれません。



【主な参考文献】
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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