天武天皇の謎…漢皇子と天武天皇、そして万葉集が明かす三角関係とは?
- 2024/05/24
天武天皇(てんむてんのう)といえば、父は舒明天皇で母は皇極天皇(斉明天皇)、そして同父母の兄に天智天皇がいることは一般によく知られています。
しかし母の皇極天皇は、舒明天皇に嫁ぐ以前に高向王に嫁いでいました。そして2人の間に生まれた「漢皇子(あやのみこ)」こそが、実は天武天皇ではないかという説があるのをご存じでしょうか?
『日本書紀』には、皇極天皇は舒明天皇に嫁いだ後に、天智天皇や天武天皇を生んだと記されています。しかし、兄・智天皇は推古天皇34年(626)に生まれたと伝えられているのに対し、弟・天武天皇の出生年は記載されていません。
『日本書紀』は、天武天皇の命で国家プロジェクトとして編纂が始まった正史であり、天武天皇の皇子・舎人(とねり)親王が中心となって編纂したものです。実の父である天武天皇の出生年が分からないということがあり得るのでしょうか?明らかにできない何らかの理由があって、意図的に隠されたと考える方が自然なのかもしれません。この事実から後世に色々と推測がなされたのも頷けます。
天武天皇を取り巻く人間関係や歴史的背景から、天武天皇自身がどのような人生を歩んだのか詳しく見ていきましょう。
しかし母の皇極天皇は、舒明天皇に嫁ぐ以前に高向王に嫁いでいました。そして2人の間に生まれた「漢皇子(あやのみこ)」こそが、実は天武天皇ではないかという説があるのをご存じでしょうか?
『日本書紀』には、皇極天皇は舒明天皇に嫁いだ後に、天智天皇や天武天皇を生んだと記されています。しかし、兄・智天皇は推古天皇34年(626)に生まれたと伝えられているのに対し、弟・天武天皇の出生年は記載されていません。
『日本書紀』は、天武天皇の命で国家プロジェクトとして編纂が始まった正史であり、天武天皇の皇子・舎人(とねり)親王が中心となって編纂したものです。実の父である天武天皇の出生年が分からないということがあり得るのでしょうか?明らかにできない何らかの理由があって、意図的に隠されたと考える方が自然なのかもしれません。この事実から後世に色々と推測がなされたのも頷けます。
天武天皇を取り巻く人間関係や歴史的背景から、天武天皇自身がどのような人生を歩んだのか詳しく見ていきましょう。
「漢皇子=天武天皇」説
天武天皇の父が舒明天皇ではなく、高向王とするなら、天智天皇とは異父兄弟であり、皇極天皇が舒明天皇に嫁いだ後に生まれた天智天皇は ”弟” ということになります。時代が下って、応永33年(1426)に後小松上皇の勅命により編纂された『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』によると、高向王は用明天皇の皇子とされています。それが事実ならば、高向王と聖徳太子は兄弟ということになります。しかしながら、聖徳太子の家系図に高向王の名前は出てこないことから、高向王の出生について詳しいことはわかっていません。
用明天皇
┃
高向王 ━━┳━━ 皇極天皇 ━━┳━━ 舒明天皇
漢皇子(天武天皇?) 天智天皇
┃
大友皇子
高向王の「高向」という名前に注目してみると、百済系の渡来人ではないかという説もあります。大化の改新後、僧旻とともに、国博士を務めた高向玄理(くろまろ)を始めとする高向一族は渡来人の子孫であり、その一族に関わりのある人物なのかもしれません。
「王」は皇族に充てられる称号なので、何らかの理由から、あとから皇籍に組み込まれたとも考えられます。のちに天武天皇が外交政策として大国「唐」ではなく、朝鮮半島を統一した新羅と積極的に交流を行った背景はそこにあるのかもしれません。
三角関係? 額田王と天智・天武天皇
天武天皇と天智天皇を語る上で外すことができない重要な人物と言えば、万葉歌人「額田王(ぬかたのおおきみ)」です。額田王は最初は天武天皇に嫁ぎ、十市皇女を授かりますが、後に別れて天智天皇の妻となります。どういう経緯があったかは史実に残されていませんが、額田王との三角関係がキッカケとなり、天智天皇と天武天皇との関係が微妙にズレ始めたと考える説も多く残されています。
『万葉集』に見る歌から3人の関係性を見てみましょう。
『あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る』 額田王
『紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも』 天武天皇
この2首は天智天皇と共に天武天皇や額田王が連れだって、蒲生野(現在の滋賀県東近江市)に薬狩りにでかけたときの事を題材にして、酒宴の席で読まれた歌です。
元夫である天武天皇に対し、額田王が投げかけます。
額田王:「紫草が生える標野を行きながら、あなたが私に袖を振る姿を、野守(天智天皇)に見られてしまうのではないでしょうか。きっと見ていることでしょう」
それに対して天武天皇が返歌します。
天武天皇:「人妻になったからと言って、あなたのことを嫌いになったのなら、慕うことはあるでしょうか。慕うことはないでしょう。嫌いではないからこそ、慕っているのです」
酒宴の席で戯れとして詠まれた歌だと知られているこの2首ですが、当然この席には天智天皇も出席していたと言われています。酒の席の戯れとは言え、自分の妻と元夫との間で、このような歌をやり取りされたとしたら、天智天皇はどのような気持ちで受け止めていたのでしょうか?
普通に考えるなら嫉妬心が湧いてきて、憎しみの念が起こりそうなものです。これで笑って許せたのなら、天智天皇と天武天皇は強い絆で結ばれたと見ることもできるでしょう。しかし何でも力ずくで自分の思う通りに物事を成し遂げてきた天智天皇が、もし弟の妻を無理やり自分の妻にしたのならば、この2人のやり取りは、心中穏やかではなかったのかもしれません。
対して天武天皇は、愛する妻・額田王を渋々ながらも兄に差し出さざるを得ない弱い立場であったことは推測の域をでませんが、妻を奪われた身としては、どんなに権力を振りかざそうとも、人の心までは奪えないということを暗に示したかったのかもしれません。
不和のキッカケになったと捉えられるこの三角関係ですが、一方で天武天皇は天智天皇の娘を4人も妻としていることから、独りの女性を巡って兄弟が争ったという単純な構図ではなく、現代の私たちの価値観とは違う古代の、しかも万世一系の天皇の血筋を守り継ぐという国家の重役を担っていた背景も含めて考える必要がありそうです。
古代国家と天皇制の基礎を作り上げた天武天皇
さて、ここで壬申の乱(672)以後の、天武天皇の事績をみてみましょう。天武天皇1年(672)、弘文天皇(大友皇子)軍を破って大和京(飛鳥)へ戻った後、新たに飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を築き、そこを新しい都としました。翌天武天皇2年(673)の2月には、飛鳥浄御原宮で即位の儀が催され、天武天皇として即位します。
ちなみに「天皇」という表記を日本で初めて使用したのは、天武天皇だと言われています。唐の高宗が「天皇」を使用したことを受け、日本でも使用が始まったとされています。天武天皇の代になってからは、唐への使節の派遣は行われておらず、隣国である新羅との交流が盛んになりました。とはいえ、当時大国だった唐の強力な国家体制に倣い、日本も肩を並べることを目標に、国内の様々な改革を推し進めていきました。
唐の律令制に倣って作られた「飛鳥浄御原令」は、天武天皇が本格的に法整備をスタートさせました。そして天武天皇が崩御された後の持統天皇時代の689年に発布されました。存命中に発布を見届けることはできなかったものの、強力な国家体制実現を目指した代々の天皇の意志を受け継ぐ形で実現した法整備だったといえます。
それ以外でも 日本初の貨幣(富本銭「ふほんせん」)の鋳造や、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)といった八色(やくさ)の姓の制定、帝紀及び上古の諸事を記して校訂して編まれた『日本書紀』の編纂などを通し、意識の上での一体化を図り、古代国家と天皇制の基礎をつくりあげました。
天智天皇の政策を継いで強力な国づくりへの取り組みを継承しつつ、天皇を頂点とする中央集権的支配体制の確立を、より徹底化、促進化したものとして注目されています。
おわりに
天武天皇の生涯を振り返ると、彼の出生の謎、複雑な人間関係、そして国家を一つにまとめ上げるという強い意志と行動力が見て取れます。天智天皇と額田王を巡る三角関係からは、天武天皇の人間的な側面が垣間見え、彼の感情にも触れることができました。
一方で、彼の政策や改革を通じて、日本を中央集権国家へと導いたそのリーダーシップは、現代の日本の基盤を築いたとの評価もあります。天武天皇の功績は、単なる歴史上のエピソードに留まらず、今日に至るまで日本のアイデンティティと国家運営の礎となっているのです。
【主な参考文献】
- 『読める年表・日本史』(自由国民社、2012年)
- 上田正昭 監修『日本古代史辞典』(大和書房、2006年)
- 宇治谷 孟 翻訳『日本書紀 全現代語訳(下)』(講談社学術文庫、1988年)
- 遠山美都男『日本書紀はなにを隠してきたか』(洋泉社、2001年)
- 遠山美都男『天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀』(角川学芸出版、2014年)
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