「松原忠司」柔術の達人? ”今弁慶”の異名を取った新選組四番隊組長
- 2023/11/28
剣客集団のイメージが強い新選組において、柔術を極めて薙刀で武装した人物がいました。新選組の四番隊組長・松原忠司(まつばら ちゅうじ)です。
忠司は小藩に生まれますが、早くから柔術を修行。免許皆伝の腕前となって大坂で道場を構えるほどになります。時勢が急転すると、新選組に入隊。勇ましい姿をして「今弁慶」の異名で呼ばれました。池田屋事件で明保野亭事件に出動し、近藤勇らの信頼を積み重ねていきます。
規律に厳しく、人に優しかった忠司は、周囲から慕われた存在でした。しかしあるときを境に忠司の人生は一変してしまいます。彼は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。松原忠司の生涯を見ていきましょう。
忠司は小藩に生まれますが、早くから柔術を修行。免許皆伝の腕前となって大坂で道場を構えるほどになります。時勢が急転すると、新選組に入隊。勇ましい姿をして「今弁慶」の異名で呼ばれました。池田屋事件で明保野亭事件に出動し、近藤勇らの信頼を積み重ねていきます。
規律に厳しく、人に優しかった忠司は、周囲から慕われた存在でした。しかしあるときを境に忠司の人生は一変してしまいます。彼は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。松原忠司の生涯を見ていきましょう。
【目次】
播磨国小野藩で生を受ける
文化12年(1815)年頃、松原忠司は播磨国小野藩で藩士の子として生を受けました。幼名及び通称は「小太郎」、諱は「誠之」と名乗ったようです。忠司は小太郎の通称から、おそらく長男であったと考えられます。将来的には家督を相続して藩士となることが確実でした。しかし小野藩は播磨国に1万石領有の財政的に窮乏した小藩であり、決して将来が楽観視できる状況ではなかったようです。小野藩の藩庁は城ではなく、陣屋(3万石未満は城は持てない)を構えていたようです。
やがて忠司は自らの境遇を切り開くべく、武術の習得に力を入れていきました。参勤交代か脱藩かは不明ですが、江戸に出府。同地で柔術・天神真楊流(講道館柔術の源流の一つ)と出会い、常陸国水戸藩出身の船川楫之輔柳真斎源國勝に師事。芝三田の道場で研鑽を積み、免許皆伝を許されるほどの腕前となりました。
北辰心要流柔術伝書には
「一柳土佐守内 柳趙斎 松原忠司誠幸」
の名前が確認されています。武術の歴史の中に忠司の足跡がしっかりと刻まれていました。
しかし忠司は柔術のみに飽き足りません。江戸滞在中に関口流の棒術にも触れていたようです。また、江戸滞在中において、近藤勇や土方歳三と接点を持った可能性が考えられます。
このとき、市ヶ谷の試衛館道場では近藤勇の養父・近藤周助(周斎)が道場主として天然理心流を指導していました。忠司のいた芝三田と市ヶ谷はそれほど離れていません。様々な武術に触れ合ううちに、接点を持つ可能性は十分にありました。
大坂で柔術と棒術を教える道場を開く
忠司が生きた時代は、日本が外圧に曝された時代でした。江戸時代後期から、日本近海には外国船が出没。嘉永6年(1853)には浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航して開国通商を求める事件も起きています。国内では尊王攘夷運動が高まり、長州藩などを中心とする反幕府勢力が発言力を高めていました。忠司の故郷である小野藩でも武芸や学問を奨励。文久2年(1862)には藩士だけでなく、平民にも藩校入学を認めています。
身分制度や門閥に囚われた時代から、次第に実力本位の色彩を強めていったことがうかがえます。
しかしこれより前の安政4年(1857)には、忠司は小野藩から「徘徊御免(追放処分と思われる)」の処置を下されていました。何か罪を犯したならば、変名を用いているはずです。その形跡もないことから、おそらくは脱藩か佐幕などの政治的運動に関わった可能性があります。
忠司は大坂に出て柔術の道場を開催。自らが起こした北辰心要流柔術を門弟に教授していきます。北辰心要流は、かつて忠司が学んだ天神真楊流と似た体系で構築。さらに関口流棒術も教えていました。
忠司が多くの武術と触れ合い、自分なりの工夫を重ねた結果が見てとれます。
壬生浪士組(新選組の前身)に入隊
やがて忠司は自分の生涯をかけた仕事と出会うこととなります。文久3年(1863)、京都で壬生浪士組(新選組の前身)が結成され、京都守護職を担当していた会津藩の下で治安維持業務を担うことになりました。このとき大坂で道場を経営していた忠司は、壬生浪士組の隊士募集に応募。そして幹部クラスである副長助勤の役職に就任しています。
早々と幹部に抜擢された理由については、能力や柔術の経歴が認められたことが大きな一因と思われますが、江戸滞在時に近藤や土方と面識があったとすれば、抜擢についても付合する点があります。当時の壬生浪士組は、局長を務める芹沢鴨と近藤勇の一派が対立関係にありました。このとき忠司は近藤派に所属していたと考えられます。
なお、忠司の入隊時期については、同年4月後半から5月の間のようです。
4月16日に隊士たちは会津藩主・松平容保の御前で武芸を披露しました。柔術を披露した中に忠司の名前は見えないので、この時期にはまだ合流していないことがわかります。しかし、5月25日に壬生浪士組全隊士の名簿が幕府に提出されており、その中に「松原忠司」の名前が明記されていました。
「今弁慶」の異名
忠司の働きや存在感については、隊の内外で大きく取り上げられています。同年8月、会津藩は薩摩藩と同盟して、御所から尊王攘夷派の公卿らを追放。御所の警備を担う長州藩を都落ちに追い込みました。世にいう八月十八日の政変です。
壬生浪士組も政変時には御所に出動。そこに忠司の姿もありました。忠司は坊主頭に黒金入りの白鉢巻を巻き、大薙刀を携えて出動に従っています。あまりの異様さに、周囲は「今弁慶」と称したと伝わります。
一方で、その異様さとは対照的に、隊士たちからは慕われていたようです。忠司の人柄については以下の言葉が伝わります。
「親切者は山南松原」
やがて壬生浪士組は「新選組」と改名。芹沢鴨の一派が近藤らに粛清される形で追い落とされます。近藤らに近い忠司は、ますます活躍の場を広げていくことになります。
池田屋事件・明保野亭事件・禁門の変への出動
武術の達人である忠司は、やがて大きな舞台で手柄を挙げることとなります。元治元年(1864)6月5日、新選組は尊攘派浪士・古高俊太郎を捕縛。古高は尊攘派浪士の間で京都大火の計画があることを漏らします。副長・土方歳三は近々浪士たちが会合を開くことを予見しました。そこで同日夜に近藤と隊を二つに分けて捜索隊を繰り出します。
近藤隊10名は鴨川西側を捜索。土方隊24名は東側を捜索にあたり、ここに忠司も加わっていました。
忠司は四条や縄手を捜索しますが、浪士の姿は見当たりません。やがて近藤隊が池田屋で浪士たちと遭遇し、斬り合いに発展したという知らせを聞いた土方隊も、池田屋に急行して戦闘に参加しました。
いわゆる池田屋事件です。忠司はこのとき屋外で守備につき、土方と共に逃げる浪士たちの追跡や捕縛を行なっています。
忠司はその後も前線で力を振っていきました。同月、忠司は会津藩士と共に東山の明保野亭に出動。逃げようとした土佐藩士が斬り付けられて負傷するという事件が起きます。忠司も現場におり、「法体の無頼漢、もと大坂で柔術指南をしていた」と妙法院の日記に記されています。
翌7月、池田屋事件で沸騰した長州藩が京都への進撃を開始。会津藩や薩摩藩と衝突し、御所に発砲するという行動に出ます。世にいう禁門の変です。新選組は真木和泉らが籠る天王山に出動。忠司は山中の攻略隊に加わって手柄を立てています。
8月、幕府や会津藩から手柄を認められた忠司は、池田屋と禁門の変での活躍により、金15両を獲得しています。
新選組の規律を遵守した松原忠司
忠司の能力や働きは、新選組において広く認められたものでした。元治元年(1864)の冬、新選組は長州征伐に向けて隊の戦時体制を編成。忠司は七番大砲隊の組頭として位置付けられました。加えて、新選組の平時体制では四番隊組長に抜擢。沖田総司、永倉新八、斎藤一に次ぐ組長職でした。併せて忠司は隊の柔術師範として指導に従事。力量が認められていたことは勿論ですが、忠司自身が近藤や土方と近しかったことを物語る人事です。
このとき、忠司は新選組の組長職を務める傍ら、大坂の柔術道場も経営するなど、京都と大坂に生活圏を持っていました。翌慶応元年(1865)2月、忠司は大坂道場の門人たちと大坂阿弥陀池にある商人、桜井慶次郎の別荘を訪ねます。
桜井は新田開発を生業とする商人でした。当時、新田開発において周辺の地主との交渉が暗礁に乗り上げ、奉行所からも書類提出を求められていました。
ここで忠司は桜井から奉行所への口利き依頼を求められます。しかし新選組の法度では、訴訟を取り扱うことは禁じられていました。当然忠司は断りを入れています。
新選組において規律違反者は粛清される恐れがありました。翌3月には総長・山南敬助が隊を脱走して捕縛されたのちに、屯所で切腹を遂げています。
手柄を挙げた身とはいえ、忠司の周りでは粛清が日常茶飯事に行われていたのです。
松原忠司の最期 「壬生心中」は抗議の自刃?
忠司の新選組での日々は、思わぬ形で変転を遂げていきます。子母澤寛が取材した『新選組物語』の中には、忠司に関する逸話が記されていました。「壬生心中」と呼ばれる話です。ある日、酒席から帰る途中の忠司は四条大橋に差し掛かります。そこで武士と口論となり、忠司は武士を斬殺しました。遺品から、武士は安西某という紀州浪人ということが判明。遺体を住んでいる壬生天神横町に運んでいきます。
そこには美しい妻と病を得た子供がいました。忠司は自分が斬殺したとは伝えられません。安西の妻に対して「安西が浪人に絡まれているのを助太刀したが、助けられなかった」と伝えます。
良心が咎めたのか、忠司はその後も安西宅に通うようになりました。生活費の面倒も見ていたようです。
程なくして子供は病死。未亡人となった安西の妻は、忠司を頼るようになっていきます。やがて忠司は安西の妻と親しくなり、男女の関係となりました。その話は、新選組の内部にも持ち上がります。
しかし副長の土方歳三は許しませんでした。あるとき、忠司を呼び出すとしつこく詰問します。激昂した忠司は程なくして切腹しますが、命を取り留めて平隊士に降格されてしまいました。
やがて忠司は安西の妻にすべてを打ち明けて絞殺し、自らも腹を切って果てたと伝わります。享年は五十一歳前後。墓所は壬生光縁寺にあります。
もっとも創作の可能性もあることから、忠司の最期について断定することはできません。門人で新選組隊士の長島喜太郎は、局長の近藤勇が佐幕姿勢を強めたことに憤慨して伏見で自刃したと書いています。
隊の在り方に疑問を持った忠司が、抗議のために自害した説も決して間違いではないようです。
【主な参考文献】
- 菊池明ら著 『土方歳三と新選組10人の組長』(新人物往来社、2012年)
- 山村竜也『いっきにわかる新選組』(PHP研究所、2011年)
- 歴史群像編集部『全国版幕末維新人物事典』(学習研究社、2010年)
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