「斎藤茂吉」歌人と医師の二刀流…近代短歌を確立した男の人生の危機は計5回!?
- 2023/07/14
近現代日本を代表する歌人、斎藤茂吉(さいとう もきち)が亡くなった時、朝日新聞はこのような記事を出しました。
ここには同時代の人々にとって斎藤茂吉がどのように見られ、どのように人気を博していたかが、よくまとまっていると思います。
明治以降、日本文学の中では、「もはや和歌などは古いものだ。滅ぶべきものだ」という意見すらありました。そんな中、斎藤茂吉は万葉的な日本語を使いつつ、現代の情景を読んだパワフルな和歌を立て続けに発表しました。
このように書くと一見、華やかな歌人のように見えますが、彼の人生はまこと、困難続きのものでした。しかしそのことは彼の歌人としての成長を阻害するものではなく、むしろ彼の大成の基盤となっていたのかもしれません。若い頃にニーチェを熟読していた斎藤茂吉は、まさにニーチェ的な、「実人生での悲劇を芸術に昇華させる」ことに血肉を注いでいた人でもありました。
そんな彼の人生にはたしかに5回も危機がありました。ここでは、歌人としての斎藤茂吉に襲い掛かった、5つの「人生の危機」にフォーカスしながら、その生涯を見ていきます。
「万葉、ことに柿本人麻呂を徹底的に研究して自分のものにし、万葉における叙情の実感やリズムの美しさを、彼の振幅の大きい西欧的教養によって近代のものにした。万葉をして西洋の近代をくぐらせて万葉に還った歌人、という感じがする」
ここには同時代の人々にとって斎藤茂吉がどのように見られ、どのように人気を博していたかが、よくまとまっていると思います。
- 現代に和歌をよみがえらせたこと
- しかも『万葉集』という古代の和歌の精神をよみがえらせたこと
- そこに西洋的な教養も盛り込んだ上でよみがえらせたこと
明治以降、日本文学の中では、「もはや和歌などは古いものだ。滅ぶべきものだ」という意見すらありました。そんな中、斎藤茂吉は万葉的な日本語を使いつつ、現代の情景を読んだパワフルな和歌を立て続けに発表しました。
このように書くと一見、華やかな歌人のように見えますが、彼の人生はまこと、困難続きのものでした。しかしそのことは彼の歌人としての成長を阻害するものではなく、むしろ彼の大成の基盤となっていたのかもしれません。若い頃にニーチェを熟読していた斎藤茂吉は、まさにニーチェ的な、「実人生での悲劇を芸術に昇華させる」ことに血肉を注いでいた人でもありました。
そんな彼の人生にはたしかに5回も危機がありました。ここでは、歌人としての斎藤茂吉に襲い掛かった、5つの「人生の危機」にフォーカスしながら、その生涯を見ていきます。
【目次】
最初の危機:自分の喋り方が東京では通じない?
斎藤茂吉は、明治15年(1882)、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現:上山市金瓶)に生まれました。幼い頃から大変な秀才ぶりを発揮しましたが、家は貧しく、彼が才能を伸ばすためには誰か名士の力を借りて都会の学校に進学する必要がありました。そんな茂吉は14歳の時、同郷の出身者で既に東京で精神科医として名声を馳せていた斎藤紀一(さいとう きいち)から、良い話を貰うことになります。斎藤紀一の娘・輝子の婿になることが条件でした。
成功者の家の養子となり、奥さんまで決まり、その跡継ぎとして最高の教育を受けさせてもらえる上、斎藤紀一が開業していた病院の院長の座も入ってくる可能性も大… とならば、田舎の貧困少年にとって文句のない話でしょう。
そういうワケで上京した茂吉ですが、ここで思わぬ障害に出会います。その東北弁訛りを学友達にからかわれながら、暗い学生時代を送ることになるのです。
もともと文学に興味があり、秀才として自負もあった茂吉にとって、自分の喋り方が「ヘンだ」と笑われるというのはたいへんな衝撃だったと思われます。
若き茂吉は東京で勉学に励む傍ら、言葉に対するコンプレックスを吹き飛ばすような、絶好の天職を見つけることになります。正岡子規の本を読み、短歌の世界に憧れるようになったのです。
彼は東京歌壇の有名人たちと接触し、目をかけられるようになり、正岡子規門下の歌人らが発行していた文芸誌『アララギ』に自作を発表するようになるのです。歌人、斎藤茂吉の誕生でした。
第二の危機:妻との壮絶な確執
正岡子規から、「写生」の理論、万葉集の手法の復活、そして和歌の近代化への志といったものを引き継いだ斎藤茂吉。自身も大正2年(1913)に『赤光』の歌集を出版し、歌人としての名をとどろかせていきます。一方で医学のほうは明治43年(1910)に東京帝国大学医科大学(現:東大医学部)医学科を卒業、昭和2年(1927)には養父の齊藤紀一から青山脳病院を引き継ぐことになり、医師としての出世も約束されたものとなりました。
まさに順風満帆に見えた彼の人生ですが、この頃より生涯続く深刻な不幸が始まります。親の都合で引き合わされて結婚(1914)させられた、年下の若妻・斎藤輝子が、事あるごとに茂吉に反発をするようになったのです。
茂吉自身の日記を見ると、養子に入ってから正式結婚までの茂吉は、輝子を妻に迎えることを純粋に心待ちにしていた様子。そこには不仲の前兆は見られません。それが、輝子が成人し、正式に結婚をした後は、口論の絶えない、寒々とした日々が始まります。
斎藤紀一からとてもかわいがられて育った輝子は、結婚しても観劇やダンスや演奏会へ遊び暮れる毎日。田舎育ちで実直であり、家父長制のカタマリのような考え方の茂吉と、意見が噛み合うはずもありませんでした。茂吉は輝子に手をあげることもしばしばとなり、輝子は輝子で、夫のことを「体臭が臭い」といいふらすなど、夫婦の険悪さは周囲にも明白でした。
しかしこうした日々の中、斎藤茂吉は研ぎ澄まされたような観察眼で次々と短歌を発表していきます。
大正10年(1921)に出た代表歌集『あらたま』には、自らの人生はどうせ一本道だと言い切っているような、何やら鬼気迫るような短歌も登場するようになります。
「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」
夫婦不仲は生涯にわたって茂吉を苦しめますが、歌人としての茂吉の力量は確実に育っていたのです。
第三の危機:勤め先の病院が全焼
『あらたま』を世に出した同じ年、医師としての斎藤茂吉にも転機が訪れます。ドイツ留学の話が舞い込んだのです。この時、あれだけ不仲でもめていた輝子もまた、途中からドイツでの留学生活を共にすることになります。茂吉が輝子を呼んだのか、それとも輝子が押し掛けていったのか、その詳細は不明です。ただ、このドイツ滞在中、夫婦は気の向くままにベルリンやパリ、その他のヨーロッパ各地の都市を観光し、夫婦二人で半年ほどの期間、とことんヨーロッパを楽しんだ模様です。
その後に起こる不幸を考えれば、この時、わずかなりとも、ヨーロッパでようやく夫婦水入らずの「わるくない」関係を持てたことは、束の間の茂吉の休息だったのかもしれません(なお、このヨーロッパ滞在中に、輝子は初めての子を懐妊しています)。
恐ろしいニュースは大正13年(1924)の帰国の途に就く際に入りました。失火による火事で、養父・斎藤紀一から引き継ぎ、生活の拠点ともしていた青山脳病院が全焼してしまったのです。
ちょうど養父の齊藤紀一が議員に出馬するために、保険を失効させていたという不運が重なりました。焼けてしまった病院を再建するためのお金の工面。そして地域住民による再建反対運動を受けての、再建先の土地探し。さらには病院全焼時に亡くなってしまった20人の患者の家族への対応と、帰国した後の茂吉はストレスフルな日々を送ることになります。
第四の危機:夫婦の破局
そんな中、昭和8年(1933)には夫婦仲をぶち壊す決定的な事件が起こります。銀座のあるダンス教師が、上流階級のご婦人たちと不倫を重ねていたことが発覚し、警視庁に検挙されるという事件です(ダンスホール事件)。ナント! このとき新聞がすっぱ抜いた「検挙されたダンス教師と交流のあったご婦人」の中には 妻・斎藤輝子の名も入ってるではありませんか!
この事件は、緊張をはらみながらも続いていた夫婦の関係が、一気に壊れていくきっかけとなりました。離婚という形はとらなかったものの、茂吉と輝子は別居生活に入ります。その後、親戚の冠婚葬祭にも、2人はバラバラに出席するという事態。事実上の夫婦の破局でした。
茂吉はこの後、正岡子規の遠縁にあたる永井ふさ子という女性と出会い、再婚することはなかったものの、あらためて恋愛をするになります。ふさ子との晩年の恋はかなり有名な話となりますが、斎藤輝子のことも弁護しておきますと、斎藤茂吉が晩年に体調を崩した時、よく付き添い、面倒をみたのは、けっきょくは輝子でした。
茂吉と輝子にも、ひとことで「仲が悪かった」だけと言い切ることもできない、不思議なバランスで結ばれた、2人にしかわからないバランスの夫婦の絆が、あったのかもしれません。
第五の危機:敗戦という衝撃
さまざまな危機を体験しながらも、そのたびに歌人として成長してきた斎藤茂吉。しかし、第五の危機は、そんな彼の歌人としての生命すら粉砕してしまう規模の事件でした。敗戦の衝撃です。昭和16年(1941)、太平洋戦争が勃発すると、斎藤茂吉は戦争賛成派の文壇人として活用するようになります。万葉集を高く評価し、天皇陛下への忠誠をしばしば口にしていた斎藤茂吉のこと。思想的には戦争賛成に傾くのも当然な人物でした。
この時期、彼は出版社から乞われて、戦争をテーマにした歌を数多く作成します。そんな彼に、青天の霹靂となったのが、昭和20年(1945)の敗戦でした。
同年8月15日の玉音放送についても、「いよいよ天皇陛下から、敵が上陸してくるから本土決戦の覚悟を決めよ、というお達しがあるのだとばかり思ってラジオの前に座った」という意味の証言をしています。
そんな茂吉にとって、日本の降伏は、価値観がすべて崩壊するような大事件でした。のみならず、彼が熱心に作っていた戦争歌は出版取りやめとなり、GHQ体制下では彼は「戦争協力者」として激しく糾弾されることになります。
この時期の茂吉。「みんなずるいんだ。僕のところにも戦争の歌をつくれつくれといってきた奴らが、今度は僕を戦争犯罪人にしようとしている」という愚痴にも似た証言を残しています。
歌人だけに、その言葉は正直で、てらいも裏心もなく、純粋に時代の急激な変化を「ずるい」と恨んでいたのでしょう。しかし歌人としての茂吉は、ここまで打ちのめされても、沈むことはありませんでした。彼はやがて戦争時代のことを反省し、戦時の自分を批判的に振り返る短歌を発表するようになります。そのうちのひとつをご紹介します。
「軍閥ということさへも知らざりしわれをおもえば涙しながる」
軍閥という言葉すら知らなかった、などというのはさすがに文学的誇張でしょうし、自己憐憫的であるとして「戦争反省歌」としてはたくさんの批判を浴びた歌です。たしかに歯切れの悪い言葉使いの歌に見えますが、個人的には、どこか鬼気迫る、なにか絞るような痛みを感じてしまいます。
おわりに
明治・大正・昭和という激動の時代を駆け抜けた歌人、斎藤茂吉。火事や戦争などに翻弄された生涯でしたが、どうしようもなく亀裂が深まっていく夫婦の不幸が、もっとも痛切な孤独感を感じさせるものと思います。「短歌というものは、作者の人生とは独立したもの」であるべきかもしれません。しかし、このような彼の生涯の、数々の危機を背景に知っておけば、たとえば以下の有名な歌も、ただ単に見たものを詠んでいるというよりは、何か強烈な、一人の孤独な魂の痛みを発露している歌、というように感じられるのではないでしょうか。
「家いでてわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり」(外出しているときに街を流れている川をみたら、卵のからが流れていた)
本記事を通じて、より深く、斎藤茂吉の歌の世界を感じ取ることができる一助になれば幸いです。
【主な参考文献】
- 『斎藤茂吉 あかあかと一本の道とほりたり』(品田悦一、ミネルヴァ書房、2010年)
- 『斎藤茂吉論』(松林尚志、北宋社、2006年)
- 『赤光』(斎藤茂吉、新潮文庫、2000年)
- 『歌集・あらたま』(斎藤茂吉、短歌新聞社文庫、2004年)
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