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【やさしい歴史用語解説】「琉球王国」

復元された首里城
復元された首里城
 「琉球王国」とは、1429年から1879年の450年間、現在の沖縄県(琉球列島)に存在した国家でした。ただし系統が2つあることから、「第一尚氏王朝」と「第二尚氏王朝」に分類されています。

 琉球に統一王朝が出現する以前、今の沖縄本島は戦乱の時代にありました。北山・中山・南山という地方国家に分裂しており、互いに抗争を繰り返していたのです。

 やがて15世紀に入ると、尚巴志という人物が登場しました。南山の一豪族に過ぎませんが、聡明で人気があり、人々は巴志を慕っていたとも。

 当時の中山には武寧という王がいましたが、大変な暴君で領民は圧政に苦しんでいました。そんな状況を見た巴志は、武寧の家臣を味方に付けて攻め立てます。武寧は浦添グスクから追い出されてしまい、巴志はついに中山の主導権を握りました。さらに都を首里へ移し、父の尚思紹を国王の座に就けたのです。

 さらに10年後、巴志が率いる大軍は北山へ攻め込み、国王・攀安知を討って次男・尚忠を国王に就けます。最後に残ったのは巴志の出身地でもある南山でした。国王・他魯毎も同様に横暴な君主だったそうで、民衆を解放するべく他魯毎を討ち果たしました。これらの国王は揃いも揃って暴君や暗君ばかりですが、おそらく琉球王国の正統性を主張するために歪曲されてしまったのでしょう。

 こうして尚巴志は初めての統一政権となる琉球王国を樹立しました。その都となった首里は一大貿易港として栄え、明国・東南アジア・朝鮮・日本へ開かれた東アジアの海の道となったのです。

第一尚氏王朝・4代の陵墓(wikipediaより)
第一尚氏王朝・4代の陵墓(wikipediaより)

 ところが40年後、琉球王国で内乱が起こりました。4代目国王・尚徳は身勝手な振る舞いが多く、家臣や領民の信望を失っていたといいます。やがて尚徳が29歳の若さで亡くなると、部下の金丸という人物がクーデターを起こし、尚徳の子供や妻を殺害、あるいは追放してしまったのです。

 さらに金丸は尚氏の跡を継ぐ大義名分を得るため、自分を尚徳の子供と称して尚円と名乗りました。こうして以前の尚氏とは血が繋がらない王統が誕生したのです。これを「第二尚氏」と呼んでいます。

 3代目国王・尚真の頃に琉球王国は最大版図を築き上げました。西は与那国島へ兵を差し向けて支配下に置き、さらに北の奄美大島まで進出しています。また海外との交易利権を手に入れたことで、琉球王国の黄金期を築き上げました。

 ところが7代目国王・尚寧が即位した頃から、琉球王国は日本本土からの干渉を受けてしまうのです。日本では豊臣秀吉が天下人となり、朝鮮出兵も始まろうとしていました。そこで秀吉は薩摩の島津氏を通じて恫喝してきます。琉球王国は兵を出さない代わりに兵糧米の半分を負担することで妥協。さらに江戸時代に入ると島津氏の圧迫が強まってきました。

薩摩藩の軍事力の前に屈服した尚寧王(wikipediaより)
薩摩藩の軍事力の前に屈服した尚寧王(wikipediaより)

 1609年、島津家久は尚寧あてに書状を送り、「将軍に臣下の礼を尽くすように」と要求します。ところが琉球はあくまで明国に従属しているという認識ですから、話が噛み合うはずもありません。結果的に島津氏の軍事侵攻を招いてしまい、間接的とはいえ支配される立場となりました。

 琉球王国は独立国家として保証されたものの、奄美大島などの領土を奪われ、貿易利権を失い、さらに薩摩藩の監視の下で生きていく他ありません。とはいえ日本から新たな文化が流入したことで、琉球には独自の風習や習慣が生まれました。文化的な見地から見れば、大きなメリットはあったのかも知れません。

 しかし明治時代になっても琉球王国の復権は実現しませんでした。明治政府の方針で一方的な「琉球処分」が決定し、琉球は沖縄県として日本の国土へ組み入れられたのです。

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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