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京都・三条に残る「弁慶石」って?パワーストーンの謎に迫る

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)といえば、源義経に仕えていた歴史上の人物としてとても有名です。しかし、実は詳しいことはわかっておらず、謎が多い人物なのだとか。

京都にも弁慶にまつわるたくさんの伝説がありますが、今回はそのひとつ「弁慶石」について詳しく調べてみたいと思います。

弁慶とはどんな人物?

「弁慶の泣き所」や「内弁慶」といった言葉を聞いたことがある方がほとんどだと思いますが、それらの言葉も「武蔵坊弁慶」からうまれた言葉。史実においては、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』や軍記『義経記』に名前が出てくるので実在した人物だということは間違いないと言われていますが、その人生は謎に満ちています。

弁慶は今の和歌山にうまれ、幼少期からかなり身体が大きかったと言われています。幼少期に、学問を学ぶために比叡山延暦寺に。しかし ”やんちゃ” だった弁慶は延暦寺でも好き勝手をし、ろくに学問も学ばなかったといいます。

放火や略奪など悪行に手を染め始めた頃、「牛若丸」義経と出会い、行動を共にすることになります。弁慶は最後まで義経に従い、奥州平泉で“弁慶の立ち往生”という壮絶な最期を遂げたと言われています。

弁慶石とは?

弁慶石は現在の京都・三条にある石。弁慶は幼少期、この弁慶石がある麩屋町に近いところに住んでいて、その頃からゆかりがあるのがこの弁慶石と呼ばれる石です。

京都市中京区三条通麩屋町東入ル弁慶石町
京都市中京区三条通麩屋町東入ル弁慶石町

弁慶石は移動している

弁慶の死後、京都・三条にあった弁慶石は、義経と弁慶が最期を遂げた衣川館があった高館(現在の岩手県)に移されたといいます。これは弁慶が好きだった石を供養に、とわざわざ運ばれたものだったのだとか。

しかし石が「三条に帰りたい」と泣き出し、人々は大騒ぎになったといいます。しかも同時に熱病が流行りはじめ、「これは弁慶の祟りでは」と騒然。石を京都に返すことにしました。

京都に戻ってきた石は、誓願寺(せいがんじ)というお寺に置かれたといいます。しかし明治になって有志の団体がこれを引き取り、昭和4年(1929)に現在の場所に移されたそう。町名までもが「弁慶石町」になったと言われています。

この場所は今でこそビルですが、駐車場だったりあまり観光スポットではなかったそうですが、京都が観光名所として知られるにつれ、源平ファンなどが弁慶ゆかりの地として訪れるようになったといいます。

弁慶石の伝説

弁慶石の伝説は他にもあり、

  • 弁慶が比叡山から石を投げたらここに落ちた
  • 男の子が触れば力持ちになる
  • 立ち往生した弁慶が石になった
  • 鞍馬口にあった石が洪水で流れ着いた
  • この石があれば厄禍から逃れることができる

など、たくさんの言い伝えがあるそう。しかしどれも確証があるものではなく、地元の方の御守りのようなものだといいます。

弁慶石は全国にある

実は弁慶石といわれる石は全国にあり、様々な伝説があります。

北海道

「薪積岩」:弁慶が暖をとるため薪を切り、その積んだ薪が化石となった

「刀掛岩」:弁慶が雷電峠で休息した際、岩をひねって大刀を置いたという伝説や海岸で釣りをする際に大刀を掛けた石

和歌山県

「弁慶の腰掛石」:弁慶が幼少期によく座っていたという石

神奈川県

「弁慶の腰掛石」:鎌倉・満福寺にある弁慶が座ったといわれる石

京都府

「弁慶たて石」:園部町にあり、戦いが終わったら義経の家の庭にたて石として使う為に弁慶が背負っていたが、あまりにも重いので、あきらめて大谷に置いていったと言われている石

兵庫県

「弁慶の重ね石」:小野町にあり、ハッタイ粉を食べて満腹になった弁慶が、石を力いっぱい投げて積んだといわれている石

伝説の多い弁慶

弁慶はその生涯がはっきりしないにもかかわらず、石だけでもこれほどたくさんのエピソードが残されています。

昔から義経や弁慶は人気があり、人々に愛されていたことがわかりますね。京都の「弁慶石」はとても訪れやすい場所にあるので、観光の合間にぜひ訪れて弁慶の伝説に触れてみてはどうでしょうか。

※参考HP
岩内町観光ポータルサイト 弁慶の刀掛岩

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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