中世・戦国期の武家の普段着ってどんな感じ?
- 2022/10/11
日本は歴史の中でさまざまなものが変化しています。服装もそのひとつ。戦国時代の武士の服装といえば……はっきりした名前や特徴を思い浮かべられるでしょうか?
戦場での武具ならともかく、通常の服装は平安時代の「直衣(のうし)」や江戸時代の「裃(かみしも)」のようなすぐわかる特徴があまりないような気がしませんか?
ここでは、中世(平安・鎌倉・室町・戦国)の武家の服装の変化について見ていきます。
戦場での武具ならともかく、通常の服装は平安時代の「直衣(のうし)」や江戸時代の「裃(かみしも)」のようなすぐわかる特徴があまりないような気がしませんか?
ここでは、中世(平安・鎌倉・室町・戦国)の武家の服装の変化について見ていきます。
正装は平安装束から続く「束帯」
実は、時代は変わっても公式の正装といえば「束帯(そくたい。衣冠束帯とも)」です。平安時代からある貴族の装束ですね。「朝服(ちょうふく)」といって、もともと古代中国から伝わり、飛鳥・奈良時代から日本でも貴族が朝廷へ上がる際に着用する衣服でした。
時代劇を見ていると、江戸時代でも将軍などが朝廷へ参内する際は黒い束帯を身に着けていますよね。それが天皇の御前での正装だからです。
武士の世になった鎌倉時代でも、例えば有名な源頼朝の肖像画「伝源頼朝像」(※現在は足利直義像とされている)を見ると、黒い「袍(ほう)」をまとった束帯姿です。武家でもこのように、冠をかぶって束帯を着用するのが最高の正装だったのです。
束帯は文官の袍(ほう)と武官の襖(おう)に分類され、戦国時代にもこの2つのスタイルが変化しつつ伝わっています。
袍(ほう)
「袍」は文官の束帯で、襖ともよく似ていますが、違うのは両脇が縫い合わされていること。そのため「縫腋(ほうえき)の袍」と呼ばれます。朝服として長く定着しますが、次第に略式化された直衣姿も登場。直衣とは「直(ただ)の衣」の意味より、貴族男子の平常服とされており、さまざまな色柄のものがありました。これが鎌倉時代以降に公服化しています。
襖(おう)
「襖」は武官の束帯で、前述の袍と違って両脇が開いています。武官の服装は動きやすさが重視されるので、文官とは少し違うスタイルになったのです。これは「欠腋の袍」と呼ばれます。かなり動きやすい服装なので、これも日常の衣服として「狩衣(かりぎぬ)」に発展して定着します。元々は狩の時に着用した下級貴族の服装でしたが、上流貴族も家の中でくつろぐ衣服として着用しています。今でいうジャージのような感じでしょうか。
襖がやがて「直垂」、そして「小袖」へと変化
前述した直衣や狩衣などは、首元が「盤領(あげくび)」という、紐できっちり留める丸襟でした。これをもっと自由に動きやすくしたのが「垂領(たれくび/たりくび)」といい、鎌倉時代頃から襟を折り込んで着るようになります。そこに時代劇でもよく登場する直垂(ひたたれ)が登場・流行するようになります。首元がV字になっており、いわば現在の着物と同じスタイルです。
そもそもこうした垂領スタイルはすでに古代からあったのですが、もともと庶民階級の衣服でした。しかし上流階級の衣服にも実用性が求められるようになって変化し、垂領が受け入れられたのです。
麻で仕立てた直垂の袖口には露というひもがついています。これは狩衣の名残といえます。首元には胸紐がつき、頭には烏帽子をかぶるのが正式なスタイル。直垂は室町時代に入ると、公服化します。
戦国期になると、「大紋」という単の直垂が登場します。背中・両袖の後ろ、両胸に家紋や旗印などを大きく染め抜くデザインとなっています。
なお、直垂が変化して発展したのが「小袖」です。本来、平安装束では下着にあたる単衣でしたが、戦国時代に男女問わず一般に着用されるようになったとされています。
江戸時代の「裃」に近い服装もあった
ここまでは主に束帯が直垂に変化するまでをたどってきましたが、実は室町・戦国時代にはすでに、江戸時代の武家の衣服「裃」もありました。それを示すのが、織田信長の肖像画です。小袖の上に袖がない上衣を羽織っており、それと同色の袴を着用しています。この袖のない上衣を「肩衣(かたぎぬ)」といい、江戸時代の裃の原型であるとされています。信長は緑色の紋入りの略式の肩衣をまとっていますよね。
この袖なしの上衣も、もともとは貧困層の服装でした。時代の流れとともに活動しやすい服装が好まれるようになり、武家社会で直垂が定着したのちに不要な袖も取っ払われたのです。これがやがて江戸時代の裃となり、武家のスタイルとして定着しました。
時代ごとにこれ!という決まりはない
戦国時代の武家の服装はどこからきたものであったのか、その変遷をたどってみました。この時代の武家の服装というと「直垂」の印象が強いですが、実はそれだけでなく、朝服や最高の正装としては依然として「束帯」があったこと、すでに袖なしの肩衣があったことがわかります。ちなみに直垂は現在の大相撲の行司の衣装、いわゆる行司装束にも伝わっています。この時代だからこの服装、という明確な区切りはなく、より活動しやすい服装を求め、また流行によっても服装は常に変化していたのです。
【主な参考文献】
- 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
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