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実在の一休さんは破天荒でちょっとイカした僧侶だった

元々は下絵だったと考えられている、生々しいリアルな一休和尚像(出典:ColBase)
元々は下絵だったと考えられている、生々しいリアルな一休和尚像(出典:ColBase)
 「一休さん」といえば、とんちでおなじみの子坊主さん。「このはし渡るべからず」や「屏風の虎」などの様々な難題を涼しい顔で解決するイメージがありますよね。独特のメロディーと可愛い歌詞だったアニメの主題歌も印象に残っていますよね。

 ところでその一休さん、実は本当に存在していたんです。アニメの一休さんみたいな人だったのでしょうか。興味が湧きますね。

一休宗純

 さて、一休さんには、モデルとなった人物がいるんです。アニメのようにとんちで次々と問題を解決する、聡明で可愛い小坊主さんなのでしょうか。

 その方の名は「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」というお坊さんで、室町時代は8代将軍の「足利義政」の頃の人物なんですよ。日本中の子どもたちの心を掴んだ一休さんですが、その実像はテレビアニメとは大きく異なります。享年88歳、15世紀では驚異的な長生きを送った人物ですね。

 南北朝の内乱が終わって間もない頃、南朝の一族で一人の男児が生まれます。時の帝(みかど)であった後小松天皇の血統となる男の子で、千菊丸(せんぎくまる)と名付けられました。この男の子が後の一休になります。

 足利義満は北朝を重視していたため、南朝系である一休は、わずか6歳で安国寺(あんこくじ)に預けられて小坊主となったのです。テレビアニメの舞台になったのは、この時期のことですね。

鴉の声で悟りを開く

 その後、厳しい修行にも耐え、漢詩を詠むなどの才能も開花します。17歳になると安国寺を出て、西金寺(さいこんじ)に入門。謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となります。そして謙翁から「宗純」の名を与えられるのです。

 清貧を貫く禅を修めるほどに、宗純の真摯な姿勢は一層厳しさを増していきます。21歳で謙翁の死を見届け、自らも琵琶湖に身を投げますが、母の使者に止められて一命を取り留めることに。その後、近江堅田にある祥瑞庵(しょうずいあん)の華叟宗曇(かそうそうどん)に入門し、華叟から「一休」の名を与えられるのです。

 修行中の一休は、琵琶湖を渡ってくる風の中で暁の鴉(からす)の声を聞いた時、ついに悟りを開くことができたのでした。悟りを開いた後も修行は続けられ、悟りを開いた僧が受け取ることのできる印可と呼ばれる証書も拒否しています。敬愛する華叟が没した後、一休は堅田を離れ、各地を巡遊するようになるのです。

朱色の大太刀

 国内外の貿易で繁栄し、当時では最先端の文物が揃っていた堺。当時、一休は好んで堺を訪れていました。

 その際、一休は人目を引く長い朱色の太刀を持ち、賑わう町中を闊歩しています。それを見た町の人は、禅僧でありながら、どうしてそんな太刀を持って歩いているのか、理解不能だったようです。

 それに対して一休は

「この大太刀は木剣で人は斬れません。世に横行する僧侶と同じく見かけ倒しなんですよ。ここというときには何の役にも立たない代物なんだ」

と答えたそうです。

 一休の肖像画には、傍らに朱太刀が配されていますが、この逸話によるものだとか。

一休宗純像(出典:ColBase)
一休宗純像(出典:ColBase)

 当時の僧を風刺し、さらに世の僧侶をありがたがる町の人々へも矛先が向いていたのですね。要するに、あなた方は私の奇態と全く同じ奇妙なことをしていると…。

 堺では華叟門下の兄弟子となる養叟宗頤(ようそうそうい)が布教をしていました。養叟は師匠の名を利用し、商人たちへの布教を積極的に行っていたのです。

 身分が低い商人には教養はなかったものの、経済力がありました。お金をあてにした宗頤の布教は教えの落としたもので、一休にとって許せないことだったようです。

 高い学識と真摯な禅への姿勢を持つ「一休」、しかも後小松天皇の血筋でありながらの奇抜な行動は、堺の人々にとって魅力的な存在でした。そのため、多くの豪商たちが一休の下に集まったそうです。

反骨精神を貫いた生涯

 人間的に少しぶっ飛んだ破戒僧であり、足利将軍や仏教界を批判しまくった反骨精神の強い僧侶。民衆に人気があったはずですね。

 一休は47歳の時、京都大徳寺の如意庵の住持に就任しています。しかし型にはまった仕事の、偉い坊さまは気に入らん、と言って辞めてしまいました。大徳寺を一旦は退去した一休ですが、応仁の乱で燃えてしまった際、85歳の高齢にも関わらず全力で復興を支援しました。大徳寺の復興には、一休を尊敬した堺の貿易商人たちが数多く協力したそうですよ。

 一休には大勢の弟子や信者が集まりましたが、誰一人として印可を与えられた者はいません。一休の法は一代限りとなっており、まさに断法の思想なのです。

 日本の臨済禅は虚堂智愚(きどうちぐ)から始まり、5人の禅僧を経て一休へと続いています。一休の法は、正統的に虚堂の教えを継承したものであり、日本の禅の本流であったのです。一休が思う後継者はいたでしょうが、誰一人として後継者として指名するものではありませんでした。

 ではではなぜ、今に一休の法が伝わっているのでしょうか?

 一休が眠る祖師塔は京田辺にあります。弟子たちは1年に1度そこに集まり、大事なことを合議で決定する「結衆」の仕組みをつくりあげ、実践しています。

※一休さんが晩年に過ごしたという、京都府京田辺市にある酬恩庵(しゅうおんあん)
※一休さんが晩年に過ごしたという、京都府京田辺市にある酬恩庵(しゅうおんあん)

 後継者を指名しないという一休の難題を、弟子たちが見事に「とんち」を使って解いたのですね。一休の法は、印可によって続けられることもなく、また死によって断法されるものでもなく、現代に伝えられているのです。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早10年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。10年以上前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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