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明治の男子学生 男色・軟派・追っかけの歴史

明治の学生といえば、学生服に学生帽、マントに高下駄のファッションが有名です。彼らは高等教育を学び、いずれは官吏や学者として次世代を担うエリート…かとおもいきや、学生の中には今と変わらず、ヤンチャで身を持ち崩すものもいたのです。

そもそも、当時の旧制高校はすべて男子校で寮生活。そうなると、必然的に女性と接する機会がありません。そのため、必要に迫られて男色に走る学生も多かったのだとか…。

明治の男子学生が男色を行ったワケ

旧制高校を舞台にした木原敏江さんのマンガ『摩利と新吾』によると、当時の学生の半数以上が男色経験者だったと語られています。

特に、主人公のひとりである摩利くんはドイツ人とのハーフで女性のような美少年だったため、入学早々、先輩からアプローチを受けます。それくらい、男色は男子学生に身近な疑似恋愛だったのです。

男色の硬派

もともと、日本は男色に寛容な国でした。戦国時代の武将は男の恋人がいるのが当たり前でしたし、江戸時代には美少年たちが相手をしてくれる「陰間茶屋」という売春施設もありました。

明治時代には、そうした江戸の男色文化の名残もあって、男同士で知識や力を高め合い、交わることを理想とした「硬派」が生まれます。

しかし、明治初期には男色が禁止されたり、女性よりも男性を好んで襲う「白袴連(びゃっこたい)」がはびこったりしたため、男色に対する評判が悪くなりました。

身を持ち崩す軟派

一方、「軟派」と呼ばれる学生たちは、恋愛できる女性を求めました。当時、自由に恋愛(疑似恋愛ですが)ができたのは、芸者や遊女などプロの女性たちです。

そうしたプロにかかると、ウブな学生たちの中には、女性たちにハマって身を持ち崩してしまう者が増えたのだとか。

女学生の登場

もともと、男色経験のある男子学生の中には、同性愛者だけではなく「周りに男性しかいないので、必要に迫られて」と、男色を行うバイセクシャルが大半でした。

そんな中で、女学生が登場します。銘仙の着物に海老茶の袴(はかま)、ブーツ姿の女学生たちに目を奪われたバイセクシャルな男子学生たちは、たちまち女学生たちへ恋愛のベクトルを向けていきました。

女学生は男同士やプロの女性よりも、結婚につながる恋愛対象となりやすかったのでしょう。ただし、当時の結婚は家長である父親が決めるので、女学生と恋仲になったからといって、すぐに結婚できるとは限らないのですが。

アイドルの追っかけをする男子学生

男子学生が好きなアイドルを追いかけるのは、昔も今も変わりません。しかし、このころのアイドルというと、芸者や遊女など、男性相手のプロがほとんどでした。

そのため、身を持ち崩す学生も多かったのですが、明治時代に新たなアイドル「女義太夫(おんなぎだゆう)」が登場します。

女義太夫は、人形浄瑠璃や歌舞伎の伴奏だった義太夫を若い女性が演奏して歌うスタイルで、見目麗しい少女が歌と演奏を披露すると、あっという間にブームとなります。

男子学生たちは自分の「推し」目当てに(勉強そっちのけで)寄席に通ったとか。

正岡子規や後に日露戦争で活躍する秋山真之も、女義太夫のファンでした。ただ、そのおかげで彼らは近松門左衛門などの浄瑠璃本を読むようになったそうなので、いちおう、勉強にはなっていたのかもしれません。

女義太夫ファンの学生たちは「追っかけ連」「どうする連」など熱狂的なグループを作り、追っかけたり、声援(コール)を送ったりしたそうですので、このあたりは明治も現代も変わりませんね。

おわりに

現代のように、誰もが教育を受けられるわけではなかった明治時代、学生は次代を担う重要な人材でした。

しかし、周囲の期待と親の心配をよそに、明治の学生たちも今と同じく恋愛や追っかけに青春を楽しんでいたようです。いつの時代の若者も変わりませんね。

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  この記事を書いた人
日月 さん
古代も戦国も幕末も好きですが、興味深いのは明治以降の歴史です。 現代と違った価値観があるところが面白いです。 女性にまつわる歴史についても興味があります。歴史の影に女あり、ですから。

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