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義によって台湾を助太刀した根本博陸軍中将の武士道

根本博ってどんな人

 根本博(ねもと ひろし)は日本の陸軍軍人で、最終的な階級は陸軍中将です。終戦時には内モンゴルに駐屯していた駐蒙軍の司令官でした。そして終戦後も侵攻を止めないソビエト軍の攻撃に応戦しつつ、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救ったのです。

 1949年に復員した根本でしたが、中共政府に攻撃されていた台湾に単身で渡り、金門島における大激戦を指揮します。そして中共政府の中国人民解放軍を撃破し、中共政府の台湾奪取による統一を断念させたのです。まさに、現在の台湾が存在を存立する決定打となったのでした。

駐蒙軍司令官

 昭和20年(1945)8月15日に日本が降伏したのにも関わらず、ソビエト軍は満州侵攻を止めず、日本人住民4万人の命が危機に晒されていました。この時期における抗戦は罪に問われる可能性もありましたが、根本はそのような形式にとらわれる時ではないと考え、一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決めたのです。根本は理由の如何を問わず、侵入するソ軍は断固撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負うと、日本軍守備隊に命令を下しました。

 何度も停戦交渉を試みる日本でしたが、ソビエト軍は攻撃を止めません。この間突撃攻撃を繰り返してソビエト軍の攻撃を食い止め、壮絶な白兵戦を繰り返していました。さらに襲い来る八路軍からの攻撃にも耐えながら、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いたのです。一方、根本は戦いの最中でも中国国民党軍の傅作義と連絡をとっていました。

 三日三晩続いたソビエト軍との戦闘は、日本軍のあまりに強靭な反撃で戦意を喪失したソビエト軍は、撤退を開始したのです。そして帰着した根本博を出迎えた駐蒙軍参謀長松永留雄少将は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記しています。

 昭和21年(1946)8月、在留日本人の内地帰還と北支那方面の35万将兵の復員を終わらせた最高責任者の根本は、最後の船で帰国をしました。終戦時、中国大陸にいた日本の軍人・軍属と一般市民は合計で600万人。実はその人々の引き上げに、尽力を尽くしてくれたのは蔣介石だったのです。本当なら自国の軍隊の輸送が最優先なのですが、可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に鉄道を割り当てたのです。

密航

 復員後、東京の鶴川村の自宅へ戻った根本博。中国情勢における国民党の敗北が決定的となり、蔣介石が総統を辞任するという話を聞きます。中国大陸において蔣介石から受けた恩義を忘れない根本博は、私財を売却して渡航費用を工面し密航を決意するのです。

 昭和24年(1949)6月26日、釣りに行くと家族に言って根本は家を出ました。宮崎県延岡市の沿岸から小さなポンポン船に乗って台湾に向かいます。そして7月10日、何とか基隆に到着するも密航者として投獄されることに。しかし根本博投獄の報告を聞いた、かつて交流のあった国府軍上層部の彭孟緝中将・鈕先銘中将は大慌てで根元の基に。「根元が来てくれた」と涙を流して手を握るのでした。

 これ以降待遇も一変し、北投温泉での静養を経た後に台北へ移動します。8月中旬には蔣介石とも面会し、アメリカが軍事支援を打ち切り孤立無援になっていた台湾へ協力を申し入れるのでした。

金門島決戦

 根本は湯恩伯の第5軍管区司令官顧問中将として任命され、湯恩伯は根本を「顧問閣下」と呼び、礼遇します。このとき根本は湯恩伯に、厦門を放棄し金門島を拠点とするよう提案。この頃北京では中国共産党によって中華人民共和国が成立します。そして金門島での決戦が迫る中、根本は塹壕戦の指導を行い、決戦準備に備えるのでした。そして金門島における決戦の時、戦いを指揮した根本は、上陸してきた中国人民解放軍を打破し、金門島を死守したのです。

その後根本は帰国しますが、金門島では激戦が続いていました。しかし台湾側は、見事に人民解放軍の攻撃を防ぎ、現在の台湾を確定したのです。その後蔣介石は、根本の功績に対し感謝の品として花瓶を贈っています。この花瓶は、イギリス王室と日本の皇室に贈られたものと同じなんですよ。根本に贈った花瓶と一対になるべきもう片方の花瓶は、今でも中正紀念堂に展示されています。

雪中炭を送る

 昭和27年(1952)6月25日、根本は民航空運公司機により帰国を果たします。3年前の密出国については不起訴処分となり、晩年は鶴川の自宅で過ごしていました。昭和41年(1966)5月5日、孫の初節句を祝った後に体調を崩して入院。一度は退院しましたが、24日にお亡くなりになりました。

 実は当時より、根本の渡台は台湾でも極秘事項だったそうです。その後の台湾における政治情勢もあり、根本ら日本人の功績は現地でも忘れ去られていました。また金門島における古寧頭戦役そのものも、歴史的意義の認知は低かったとか。

 そんな状況でしたが、平成21年(2009)に開かれた古寧頭戦役戦没者慰霊祭。そこに根本の出国を助けた明石元長の息子である明石元紹さんと根本の通訳で長年行動を共にし同行を続け、古寧頭の戦いにもいた吉村是二の息子の吉村勝行さんらが台湾政府に招待されたのです。そして明石元紹さんと吉村勝行さんが帰国する際、報道陣を前にした台湾国防部常務次長の黄奕炳中将が、国防部を代表してこう述べます。

 古寧頭戦役における日本人関係者の協力は感謝に堪えません。この行為は、まさに「雪中炭を送る」行為と言えますと感謝の言葉でした。「雪中炭を送る」とは、困った時に手を差し伸べるという意味。これこそが武士道と言って良いのではないでしょうか。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早10年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。10年以上前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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