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義賊・ねずみ小僧は実在の人物だった!?
- 2023/07/31
鼠小僧治郎吉って誰?
鼠小僧こと次郎吉は、江戸時代後期に世の中を騒がせた盗賊です。一般には、鼠小僧次郎吉として知られていますね。盗みに入るのは大名屋敷のみ、これが貧しい人達に受け入れられ、後の世に義賊として伝説化されました。次郎吉の本業は、鳶職だったそうです。次郎吉は、歌舞伎小屋中村座で仕事をする貞次郎の息子として元吉原に生まれました。10歳頃に木具職人に奉公し、16歳で親元へ戻ったのですが、その後は鳶人足となります。しかし身持ちが悪く、父親から25歳の時に勘当されました。結局は賭博にハマって身を持ち崩し、あげくの果てに賭博の資金稼ぎとして盗人稼業に手を染めるようになったようです。
盗人稼業
文政6年(1823)以降、次郎吉が忍び込んだ武家屋敷は、28ケ所32回に及んでいます。そして文政8年(1825)に土浦藩上屋敷に忍び込んだ際に捕縛されたのです。しかしこの時は、奉行所の取り調べで「初めての盗み」と嘘をつき、入墨の上で追放の刑で免れました。そして、一時は上方で過ごしていましたが、密かに江戸に戻り、父親が住む長屋に身を寄せますが、またもや盗人稼業を始めたのです。その後7年にわたり、武家屋敷71ヶ所90回で盗みを行いましたが、天保3年(1831)5月5日、ついに上野国小幡藩屋敷で捕まったのです。五尺に満たない小男だった次郎吉は、動作も敏捷だったとか。捕縛の際に奉行所家が自宅を調べましたが、まともな家財道具もなくお金もありませんでした。
北町奉行榊原忠之の尋問により、10年にわたって行なった犯行は、屋敷95箇所・839回・盗んだ金三千両余りと判明しました。しかしこれは次郎吉自身の供述で、本人が記憶していない犯行もあるため、正確な金額は未だに不明なんですよ。
捕縛されてからの3ヵ月後、次郎吉に市中引き回しの上、獄門という判決が下されます。引き回しの日には、牢屋敷があった伝馬町から日本橋そして京橋まで、鼠小僧を一目見ようと、大勢の野次馬が押し寄せたといいます。次郎吉の処刑は、小塚原刑場にて行われました。
義賊扱いされる要因
当時の重罪には連座制が適用されていました。ですので、有罪犯の家族や一族すべてが処分されました。しかし、次郎吉は勘当されていたので肉親とは縁が切れています。数人いた妻や妾には捕縛直前に離縁状を渡していたので、天涯孤独として刑を受けたのです。このことから、他人を巻き込まずに済ませたということになり、鼠小僧次郎吉が義賊として扱われる要因のひとつになっているようです。次郎吉のお墓は、両国の回向院にあります。参拝する皆さんは、長年にわたって捕まらなかった次郎吉にあやかろうと、お墓のお前立ちを削ってお守りにしている人もいるとか。
また、愛知県蒲郡市にある委空寺には、母親が建てたお墓が移設されています。その他、南千住の小塚原回向院に加え、愛媛県松山市や岐阜県各務原市にも鼠小僧に恩義を受けた人々が建てたと伝えられるお墓もあります。ということは、義賊のような行動もしていたのでしょうか。
実のところは
汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を、お金に困っている貧しい者に分け与えたという鼠小僧伝説があります。実はこの噂は、次郎吉が捕まる9年も前から流れていたんですよ。まるでそれを証明しているように、次郎吉逮捕後の家宅捜索でも金銭などはほとんど発見されていません。次郎吉がわきまえた生活を続けていたこともあって、盗んだお金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたのでしょう。しかし実際の記録では、このような事実にはまったく触れていません。現在では調査や研究も進んで、盗んだお金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費したという説が主流になっています。
鼠小僧が犯行を繰り返していた江戸時代に於いては武士階級が絶対でした。大名屋敷を専門に、たった一人で盗みに入ることから、権力に逆らう義賊のように扱われたのでしょう。しかし、次郎吉自身がその様な意思を持っていたかどうか疑問です。大名屋敷を狙う理由は、敷地が大きい上に警備も手薄だったことや、男性と女性が住み分けされる中でお金がある奥には女性ばかりのため、見つかっても逃亡しやすいという理由だったそうです。
町人が住む長屋には大金は無く、裕福な商家の場合は警備が厳重。それに反して大名屋敷は、幕府に謀反などと疑われないように警備も厳重に出来ていませんでした。さらに面子と体面を守るため、被害が分かっても届け出しにくいという事情もあったようです。まさに鼠小僧次郎吉は、時代の盲点を突いた盗賊と言えるのではないでしょうか。
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