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狩野派の障壁画を見に行こう!二条城二の丸御殿

 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸幕府を開いたのと同時に将軍の上洛時の滞在を目的に創建された二条城。二条城二の丸御殿障壁画は、後水尾天皇の行幸に先立ち、江戸幕府の3代将軍・徳川家光が寛永元年(1624)から寛永3年(1626)にかけて行った大改修の際に、狩野探幽率いる狩野派一門が描いたものだ。

 二の丸御殿にはこの寛永期ものを含む約3600面の障壁画が残されており、昭和59年(1982)に1016面が国の重要文化財に指定されている。

 寛永3年(1626)9月6日、後水尾天皇が中和門院と中宮和子とともに二条城に行幸。この日までに障壁画を含むに二条城の大改修が完了している。

 狩野派一門を率いた探幽はこのとき25歳、大広間と式台の間を描いたとされるが、大広間の四の間は狩野山楽が描いたとの説もある。大広間の一の間から四の間には、巨大な松が描かれており、襖の高さに収まりきらず、長押の上にまでつながる構図の松が空間を支配する。松は、季節が変わっても1年中変わらず緑を保つ樹木であり、長寿や繫栄の象徴だ。

 障壁画は部屋の格によって描かれる内容が異なり、障壁画を描く際には各室に序列があるように「式法」と呼ばれる作法・約束事があった。殿中の上段には水墨の山水画、中段には淡彩の人物画、下段には濃彩の花鳥画、庇の間には濃彩の走獣画を描くという狩野派の図様の式法だが、二条城二の丸御殿では一番格式の高い大広間に金地の巨松と中国の珍しい鳥が描かれており柔軟性はあるものの、基本的な序列は式法に従っているとされる。

 部屋には、それぞれ格式と役割がある。巨松のように風格を感じさせる空間表現があるのに対して、プライベートなやすらぎの空間を演出する図がある。「この間の格式はどうなのだろう」「だれがどのように過ごした間なのだろう」と考えながら、その部屋に座ったときにどのような気持ちになるかを想像しながら鑑賞するのは、実際の建築の中にある障壁画ならではの楽しみだ。

 二条城では昭和47年(1972)から模写画とのはめ替え事業が継続されており、実物の障壁画は「二条城障壁画 展示・収蔵館」で見ることができる。一度に公開できるのは平均30面となり、展示内容は期間ごとに変更されるので、お目当ての作品がある場合には公開内容を確認してから訪れるとよい。


※参考文献
元離宮二条城事務所『二条城二の丸御殿障壁画ガイドブック』2015
榊原悟『狩野探幽 御用絵師の肖像』臨川書店 2014

※参考サイト
「世界遺産 元離宮二条城」ホームページ
https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/

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  この記事を書いた人
KOBAYASHI Sayaka さん
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