武士の内職、傘張り浪人は本当にいた!?

 昭和の時代劇でよく見かけた肩に継ぎ当てをした浪人が裏長屋で傘張り仕事に精を出す風景。暮らしの糧を得るためですが、傘張り浪人は本当にいたのでしょうか。

浪人だけじゃなかった内職侍、傘張りに励む武士たち

 傘張り浪人は本当に居ました。しかも浪人だけではなくちゃんと仕官している武士たちも内職に精を出しています。下級武士の組屋敷では、住人が協力して仕事を請け負うしっかりとした内職組織まで出来ていました。

 有名だったのは青山鉄砲百人組で、組頭が傘の骨や紙などの材料を一括で仕入れ、組長屋の武士に仕事を割り当てます。骨に糊を引いて張り付けから紙に油を塗って乾燥まで行ない、仕上がった傘を組頭がまとめて仲買人へ売り渡します。青山の辺りには傘の仲買商が20軒もあったと言いますから立派な地場産業ですね。この傘は仕事が丁寧だと評判で “青山傘” のブランドで良く売れました。

 ところで鉄砲百人組とは若年寄配下の立派な役職で、将軍が出かける時の警護を務める甲賀・伊賀・根来衆の事です。もとはバリバリの戦闘集団「忍び」も、太平の世では腕も錆付き、内職に精を出して、どうにか生計を立てて暮らしていました。

 経済や産業が発達して物価が上がる中、侍には昇給が無いので中・下級武士の生活は苦しかったのです。

内職に熱を入れ過ぎ、命を落とす者も

 時代劇でごろつきが貧乏侍を罵って「このどさんぴんがっ!」などと言いますが、これは最下級の武士の俸禄が年に三両一人扶持で、江戸中期には “三一(さんぴん)奉公” の言葉が生まれたからです。

 一人扶持の扶持米は米五表が支給されますから飢え死にはしませんが、三両は現在だと30万円ほど。貨幣経済の江戸において、年に30万円では暮らせません。町奉行配下の同心などは役得で稼げますが、そうでない者は内職でもしなければやっていけません。

 刀の鑑定技能を持っていたり、書画が得意な者はその道で稼げますし、寺子屋や浄瑠璃・習字の師匠になれれば外聞も良く、生活も安定します。御家人たちが頂く屋敷地は100坪以上で役職によっては1000坪もの土地を拝領できますから、特殊技能のない者たちはその土地を使って何とか稼ごうと考えます。貸家を建てて賃料を取ったり、庭の土を掘って売るものまでいました。

 ── 文化12年(1815)冬のこと。青山薬研坂の拝領邸に住む御家人の和田庄五郎と言うものが、いつものように売り物の土を掘っていました。しかし深く掘り過ぎたため、突然穴が崩れ落ちて庄五郎は生き埋めになってしまいます。しばらくして気付いた家族が掘り出しましたが、庄五郎はすでに絶命していたそうです。

土地ごとに名物まで誕生、太鼓持ちの真似まで?

 内職に励むあまり、ついには土地の名物まで作り出します。御徒町に住む御徒士組(おかちぐみ)の武士たちは、広い敷地を利用して見事な朝顔を咲かせます。おりからのお江戸の園芸ブームにも乗って朝顔市に出品して大変な評判を取り、これが明治以降の “入谷の朝顔市” の元となりました。

 大久保百人町ではこちらも鉄砲百人組が ツツジ を熱心に育て、季節には町内全体が真っ赤な花で燃えるよう。江戸第一の壮観とまで言われ、大名の奥方たちが見物に訪れたとか。

 風流な処では鈴虫やコオロギを育てて町方の虫売りに卸したり、下谷は湿地で穴を掘れば池になるのでそこで金魚を増やしたりします。他にも虫かご作り・提灯張り・簪作り・花札作り・凧作り・房楊枝作りに竹細工、達筆の者は商家の看板を書いたり版下の文字を書きます。商家の用心棒になるのは剣術の腕も生かせるので、寺子屋の師匠と並んでオイシイ仕事でした。

 幕府は旗本・御家人に茶屋遊び( 料亭・遊郭などで、芸者・遊女を相手に、酒を飲んで遊ぶこと。)を禁じていましたが、裕福な旗本は自邸で宴会を開きます。その席に芸達者な下級武士が呼ばれて行き、踊りや三味線・役者の声音や芝居の一場面を演じて見せたりして金を貰いました。武士が太鼓持ちまがいの事をと驚きますが、これも食べるためです。

それでも一応は侍

 御家人も旗本も100石取り以下の者は内職で稼ぐのを許されます。しかし下級侍と言えども本職の仕事もあります。

 内職の時間をどのようにして作り出していたのでしょうか? 実は役付きの侍の多くは “三番勤め” と言って3日に1度の勤務で、あとの2日は非番でした。非番の時は学問や武芸の稽古に励むのが建前ですが、この時間を内職に充てます。充分な手当も支給できない以上、幕府もあまり煩い事は言えません。

 武士の体面を保つには謡曲を謡って聞かせる“辻謡い(つじうたい)”の仕事があります。謡曲とは能を演じる時に謡われるものです。江戸時代になると、これが独立して楽しまれ、大流行します。

辻謡いをする武士(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
辻謡いをする武士(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 この仕事をする武士は寺社の境内や人通りの多い道の脇に筵を敷き、深編笠をかぶり鼓を持ち、扇子1本を前に置いて座ります。求める人があると謡曲を謡って聞かせ、銭を貰いますが、他人と言葉を交わさず顔も見せずに武士の対面を損なわずに稼げるとして、武士だけに許された仕事でした。

おわりに

 江戸初期は幕府が盛んに大名家を取り潰したので浪人も大量に増えましたが、幕府の譜代大名家創出期でもあったので仕官の口もありました。幕藩体制が整ってしまうと仕官の道も閉ざされ、幕府は治安対策として浪人取り締まりを厳しくしたので浪人たちの不満は高まって行きます。彼らの不満を利用したのが慶安4年(1651)由井正雪が起こした慶安の変です。


【主な参考文献】
  • 安藤優一郎他『歴史REAL大江戸侍入門』洋泉社/2013年
  • 中江克己『歴史群像シリーズ 図説「侍」入門』学研パブリッシング/2011年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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