※ この記事はユーザー投稿です
なんという勇ましさ!メキシコクーデター軍を前に1人立ちはだかった侍外交官・堀口九萬一
- 2023/06/06
堀口九萬一(ほりぐちくまいち)とは?
越後長岡藩の足軽の子として生まれた堀口九萬一。3歳の時、父は戊辰戦争で戦死。幼少時代より秀才として知られ、なんと18歳で地元長岡の学校で校長となりました。その後上京して、最優秀の成績で東京帝国大学法科大学に入学、在学中の1892年には息子が誕生し、後の詩人・歌人・フランス文学者として名高い堀口大學となります。その翌年に卒業。1894年には、日本で初めての外交官及領事官試験に合格しました。
1899年にブラジルに赴任、日露戦争直前の1903年にはロシアが企むアルゼンチン軍艦購入交渉を阻止すべく、ブエノスアイレスに向かい、アルゼンチン政府の高官と交渉を行ない、任務を果たしました。そして逆に日本政府が軍艦を購入し、その軍艦は「日進」・「春日」と命名され、日本海海戦に参加するのです。
クーデター軍の前に一人で仁王立ち
臨時代理公使として赴任したメキシコでのこと。1913年に堀口九萬一は軍事クーデターに遭遇します。1913年、フランシスコ・マデロ大統領を打倒するクーデターの勃発後、前ディアス政権において軍を束ねていたウェルタ将軍は、鎮圧を任されたのにも関わらず、アメリカから武器支援を受けたことで反革命に動きました。
寝返ったウエルタ将軍は2月21日、大統領府でマデロ大統領を監禁して殺害。そのまま将軍は独裁政権を樹立して大統領に就任したのです。
この事件では大勢の抵抗した市民が犠牲になりました。マデロ大統領が監禁されてから殺害されるまでを、メキシコの人々は「悲劇の10日間」と呼んでいます。
その際、マデロ大統領夫人と同父母の親族20名以上が日本国公使館に飛び込んできて庇護を求めたのです。一族の親しい友人であり、臨時代理公使であった堀口九萬一を頼ってのことでした。
そこで堀口九萬一は、「メキシコの人々が日本大使館を信頼し尊敬している心情の表れ」との報告を外務省に送り、親族を保護します。保護をすれば、ウエルタ将軍一派が日本公使館を攻撃するとわかっていた上での決断でした。
当時の領事館には、今のような治外法権は通用しませんでした。さらにはアメリカ大使館はクーデター軍と繋がっていたので、まさにクーデター軍の中で孤立してる状態だったのです。
夫人たちを保護すると、予想通りすぐにクーデター軍が領事館内に押し寄せてきました。そのとき堀口九萬一は、日章旗を広げてその前に立ちはだかりました。そして、クーデター軍に向かって、
「大統領夫人と子供を殺したいならその前に私を殺せ!そして、この日章旗を踏みつけて乱入すればいい。その代わり、日本は絶対に君たちを許さない。その覚悟でやれい!」
と恫喝したのです。
その迫力と鬼神のような堀口九萬一の姿に、クーデター軍は突入をあきらめて引き上げたのでした。
サムライが来た! 将軍との直談判
元大統領の家族を保護はしたものの、「国外に逃がすには時間がかかる。その間に、いつまた襲われるかも知れない」と、堀口九萬一は、クーデターの最高責任者であるウエルタ将軍(大統領)に直談判に向かいます。領事館の顛末を知っていた将軍側の関係者は、「サムライが来る!」と大混乱になり、将軍との面会に至るのです。そこで堀口九萬一は、日本の武士道を説きます。
「”窮鳥懐に入らずんば猟師も殺さず”、どんな理由があろうと助けを求めてきたならば、その人は助けるものであり、それが人であり人道である。貴国にはこれに類する言葉や精神はあるか!」
とウエルタ将軍に詰め寄ったのです。これに全く言い返すことができなかった将軍は、大統領妻子に危害を加えぬことを革命軍に保証させました。このことから堀口九萬一は、「サムライ外交官」と謳われるようになったのです。
大統領に安全の確約をさせたものの、堀口九萬一が油断をすることはありませんでした。さすがに領事館に攻撃はしなくても、国外に出る船に乗船させるまでは安心できません。そしていよいよ脱出の当日。堀口九萬一は息子の大学を連れて、大統領妻子とその家族が船に乗り込むまで、自身で送り届けたのです。当然、船までの道中に襲撃される可能性も高く、同行した息子大学と共に、死ぬ覚悟ができていたのでした。
メキシコ上院議場の栄誉の壁に掲げられた唯一の日本人
時は進んで2015年、メキシコ上院議会で除幕式典が開催されます。そこに飾られた記念プレートには「1913年2月の苦難の日々における、その模範的な生き方とマデロ大統領家族に対する保護に関して、堀口九萬一と偉大な日本国民に捧げる」
と刻まれていたのです。
この記念プレートに刻まれた唯一の日本人が堀口九萬一でした。
この堀口九萬一臨時代理公使が行った人道的対応は、メキシコ国内でも幅広く評価され、当時政権に就いたウエルタ大統領自身からも称賛されたそうです。日本とメキシコを繋ぎ、友情を示す逸話の中でも、特に印象深いものとして知られています。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄