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謎多き大泥棒、石川五右衛門

百地三太夫の弟子?

 石川五右衛門を題材にした日本映画は、これまで30本近くが公開されています。近代になった今でも、庶民の間で親近感が持たれている超有名な大泥棒なんですね。しかし、その生い立ちなどは良くわからず、生年や出自は不明です。それでも、時代は戦国時代末期で、出生地としては伊賀・遠江・河内・丹後などの説があります。

 幼少の頃から非行に走ったとされる石川五右衛門。両親を亡くした後、伊賀忍者の首領だった百地三太夫の弟子となったのですが、抜け忍となったとする説があります。

 忍者を辞めた理由としては、百地三太夫の妻と密通したとか、妾を殺害して逃亡したとか、更に一緒に駆け落ちしたなどと様々な伝承があるんですよ。

丹後伊久知城主の次男?

 明治時代になって戸籍ができるまで、農民などは姓名を持っていませんでした。しかし五右衛門は、石川と言う姓名もありますので、もともとは武士だったということも考えられますね。そこに出てくるのが、丹後の伊久知城主・石川家の出自とする説です。

 豊臣秀吉の軍勢が丹後攻めをした際、家老の家柄であった石川秀門が謀殺されます。その石川秀門の次男だった五良右衛門が落ち延びて、石川五右衛門になったとされるのです。その他諸説あるのですが、どれが正しいのか全てがフェイクなのかはわかりません。

 どのようなワケにせよ、京に出て盗人として悪事を繰り返したのは間違いありません。しかし、盗みに入るのは、豪族・豪商などといった権力者のみで、庶民の間ではヒーロー的な存在になっていました。やがて、盗賊仲間を率いて規模の大きな盗みを行うようになったので、大坂城の豊臣秀吉から捕縛命令が出されたのでした。

釜茹での処刑は事実

 しかし、ついには捕縛されてしまった石川五右衛門は、1594年8月24日に市中を引き回しのうえ、京都の三条河原にて一子と共に処刑されてしまいます。子供に罪は無いと思いますが、関係者は全員と言うことなのでしょうか。そしてその処刑方法は、今でも知られる「釜茹」だったのです。

 高温のお湯の中で、苦しませないように子供を釜に沈めてから石川五右衛門も命を落としたとされています。『山科言経卿記』にも、

「石川五右衛門ら盗人すり十人、子一人が釜にて煮らる。三条橋南の河原にて成敗なり」

との記載が見られます。

五右衛門の処刑を描いた錦絵『石川五右衛門と一子五郎市』(一陽斎豊国 画、出典:wikipedia)
五右衛門の処刑を描いた錦絵『石川五右衛門と一子五郎市』(一陽斎豊国 画、出典:wikipedia)

「石川や、浜の真砂は尽くるとも、世に盗人の種は尽くまじ」

 五右衛門の辞世の句は有名ですね。石川五右衛門のお墓は、京都の大雲院にあります。そして、石川五右衛門の処刑に使用された釜は、戦前名古屋刑務所にて保管されていました。しかし、戦後の混乱で行方不明になっています。

いつしか義賊に

 かつては伝説の人物になっていた石川五右衛門。イエズス会の宣教師ペドロ・モレホンの日記では、盗賊の首領と手下は、油の煮えたぎった釜の中に生きたまま沈められたと書き残されています。

 同時に、いかに盗賊の処刑とはいえ、あまりにも残酷すぎるという記述もあるそうです。実際に「釜茹」の刑になった盗人はいましたが、湯ではなく油であったともされています。

 庶民から好意的に思われていた石川五右衛門の処刑から、かまどの上に鋳鉄製の風呂釜を置いて入浴する「釜風呂」の事を、庶民は「五右衛門風呂」と呼ぶようになりました。

 時代は江戸時代へと移り変わり、石川五右衛門は時の権力者だった豊臣秀吉の命を狙う義賊となっています。歌舞伎・浄瑠璃・落語などでも頻繁に演じられるようになり、人気を博したようです。他にも有名な盗賊として、鼠小僧治郎吉がいますが、こちらも実在の人物だったんですよ。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早10年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。10年以上前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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