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斬新な構図で江戸を表現 葛飾北斎『冨嶽三十六景』「江戸日本橋」

※葛飾北斎「江戸日本橋」『富嶽三十六景』シリーズより(メトロポリタン美術館所蔵)
※葛飾北斎「江戸日本橋」『富嶽三十六景』シリーズより(メトロポリタン美術館所蔵)

宝暦10年(1760)に江戸本所割下水(現在の墨田区)に生まれた葛飾北斎。

30以上の画号を名乗り、90年の人生において93回の引っ越しをしたという北斎のエピソードは有名だが、描くことに集中しており、部屋の中が散らかって汚れたら、掃除や片付けをするよりも引っ越ししたほうが早い!ということのようで。

遠くに引っ越ししたわけではなく、北斎自身は江戸で生まれて、地元で生涯のほとんどを過ごした江戸っ子だったと言えるだろう。

葛飾北斎の『冨嶽三十六景』は、天保2年(1831)から刊行された大判錦絵であり、人気を博したことから当初の36景に10景を加えた46景からなるシリーズ。北斎72歳のときに生まれた代表作だ。そこには富士山とともに市井の人々の様子が描かれていて興味深いのだが、特に変わった描き方をしているのが「江戸日本橋」だ。

一瞬見ただけには、どこに人々が描かれているのか気付かないかもしれない。画面の下部をよく見ると、ごちゃごちゃと描かれている何かがある。これが橋を渡る人々だ。そして、画面下部の左右中央あたりに擬宝珠が描かれていることから、ここが日本橋の上だということがわかる。

擬宝珠は幕府直轄のご公儀橋に付けられたもので、江戸市中で擬宝珠があったのは日本橋、京橋、新橋のみであったという。そのような格式の高い橋をあえて描かないのが、北斎だ。

忙しく荷を運び活気がある人々の様子、日本中から船で荷が届く河岸には白壁の土蔵が美しく並び、遠近法を強調した川の先には江戸城、その向こうには富士山が見える。日本橋と江戸城と富士山は、江戸を描く3つのモチーフとして決め事にもなっていたというが、この作品ではそのセオリーをそのまま踏襲されてはいない。

江戸城の天守閣の姿は富士山の写しであるとも言われ、江戸城の向こうに富士山が見える構図は、江戸を象徴しているのと同時に、庶民と幕府の階層の違いを表しているようにも見える。それなのに、決して風刺的というのではなく、どこか洒脱で、江戸の人々への親しみと江戸の町への愛着をも感じさせる構図になっているから不思議だ。

江戸に暮らす北斎が描く江戸、そして、江戸日本橋。権威ある橋をほとんど描かずに、人さえも頭や荷物の先っぽしか描かない視点は、絵を見る人を群衆の中に入り込ませる効果があり、茶目っ気たっぷりに軽快に日本橋という橋の本質を感じさせる。見れば見るほどお見事だ。

日本橋を渡る人は多かったけれど実際はここまでではないとか、船や船着き場の様子が実際とは違うとか。資料的に見れば現実との相違点がいろいろ見つかるという。だが、描きたかったのはそこではないはず。

「なんでこんな端っこに人の頭を描いたんだよ~」と、まずはクスっと笑って、江戸の人の気持ちになって浮世絵の中に入り込んでみてはいかがだろうか。

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  この記事を書いた人
KOBAYASHI Sayaka さん
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