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あのタイタニック号に乗っていた唯一の日本人 細野正文氏の不運
- 2023/02/15
この有名なタイタニック号に一人だけ日本人が乗っていたことは知る人ぞ知る事実ですが、今回はその唯一の日本人乗客であった細野正文氏について述べてみましょう。
細野正文氏がタイタニック号に乗ることになった理由
細野氏は東京外語学校のロシア語科の卒業でロシア語が堪能でした。また、それ以前に 東京高等商業学校(現在の一橋大学)も卒業していますので、非常に優秀な人物であったことが分かります。明治40年に帝国鉄道庁経理部調査課主事という鉄道に関する専門部署に配属されたのですが、当時の日本の鉄道技術は決して高くなく、鉄道技術が発達しているロシアに留学して鉄道技術を学ぶ必要があり、細野氏が選ばれたのです。
細野氏はサンクトペテルブルクに留学し、1年間ロシアの鉄道技術を学び、帰国する際に一旦は英国に行きました。というのもサンクトペテルブルクはロシアの西端にあるため、ヨーロッパ回りで帰る方が早かったのです。
当時はロンドンと日本の間に定期航路もありましたので、細野氏はそれに乗るつもりだったと思われます。しかし英国で同じ鉄道官僚である木下淑夫に会い、「せっかくだからタイタニック号に乗ってみたらどうだ」と勧められました。
当時、英国ではタイタニック号は世界最大の客船ということで世間の注目の的でした。細野氏も「滅多にない機会」と思ったのでしょう。タイタニック号でニューヨークまで行けば、ニューヨークから日本までの定期航路もあります。ほぼ、地球を一周近くする旅路となりますが、生涯に一回くらいはそんな旅をしてみるのも悪くない、と思ったのでしょう。
こうして細野氏はタイタニックの2等船室の乗船券を買い求めたのでした。
タイタニック号沈没
2等船室の乗客となった細野氏は船室で日本宛の手紙を書いていました。当時の客船の1等、2等、3等の格差は物凄いもので、1等、2等の乗客には船員が全ての部屋を回り、非難を促したのですが、3等船室では数が多いこともあり、外で船員が「外に出て非難しろ!」と大声で怒鳴る対応しかしませんでした。
2等船室にいた細野氏の所には船室係が来て「早く甲板に行け!」といってライフブイ(救命浮き輪のこと)を置いていきました。「何があったんだ?」という問いに船室係は答えず、すぐに出て行ってしまったので細野氏は、そのライフブイを身に付け、急いで甲板に出ていきました。すると、甲板には若干の乗客がいて、救命ボートが降ろされつつあるところでした。
タイタニック号は船底が壁で仕切られており、仮に一カ所で浸水が起きても、他のエリアには波及しない仕掛けになっており、「浮沈船」というのが歌い文句でした。ただ実際には、仕切り板は上部に空きがあり、一カ所が浸水してそのエリアが満杯になると、隣のエリアに溢れた水が流れ込んでしまうため、決して「浮沈船」ではなかったのです。
しかし乗客の多くは「こんな夜にあんな小さな救命ボートに乗るより、船に残っていた方が安全そうだ」と考えたようで、細野氏が甲板に上がった時には「若干の乗客」しかいなかったようです。事実、最初に船を離れた1番救命ボートは半分も人が乗っていませんでした。
細野氏が見たのは10番目の10番救命ボートです。海面に降ろされつつあった救命ボートが途中で滑車が何かに引っかかってしまい、船員が必死にそれを解いているところでした。すると、細野氏の隣にいたタイタニック号の船員が「まだ、余裕があるな」といって降ろす途中のボートに飛び乗ります。確かにボートにはまだ余裕があったようなので、細野氏もその船員に続いて飛び降りました。
この時の様子を細野氏がのちに某雑誌で述べていますので、そのままご紹介しましょう。
ふと舷側を見ると、今や最後のボートがおろされるところで中には45人分の女子供が乗って居たが、スルスルと1ヤードか2ヤード程卸した。ところが何か滑車に故障があったと見えてピタリと止まった。ふと聞くともなしに聞くと「何にまだまだ3人位ゆっくり乗れるじゃないか」と船員同士の話声がした。私は立ち止った。すると私の側に居った一人の船員がヒラリとばかりにボートに飛び下りた。見るとボートは元の儘、舳のところが空いて誰も居ない。これなら飛び込んでも誰にも危害を与えまいと思ったので、いきなり飛び下りた
実際は10番救命ボートは最後のボートではなかったため、冒頭部分は細野氏の思い違いです。何にしても、おかげで細野氏は生還することが出来たのです。
帰国後に待ち受けていた不運
帰国した細野氏ですが、家族への土産はみんなタイタニック号とともに沈んでしまい、残っていたのは上着のポケットに入れた「書きかけの手紙」だけでした。その手紙はタイタニック号備え付けの専用便せんに書いており、タイタニック号の所有会社であるホワイトスター汽船会社のマークが入っていました。このため、仕方なくそれを土産として家族に渡したそうで、「もし、もっと欲しかったら大西洋の底まで取りに行ってらっしゃい」と言って笑っていたそうです。
ところがある出来事からそんな風に笑えない事態に発展します。細野氏が帰国して少し経った頃に、ローレンス・ビーズリーというタイタニック号の船員が出した『THE LOSS OF THE SS.TITANIC』という本の中に「他人を押しのけて救命ボートに乗った嫌な日本人がいた」と書かれていました。日本人乗船者は細野氏だけなので、当然この「嫌な日本人」とは細野氏のことだろうと思われました。これを気にした 鉄道院は細野氏を副参事から嘱託に格下げしてしまうのです。
また、世間でも細野氏を悪く言う声が聞こえてくるようになります。一部では「してはいけないことの例として修身の教科書に載った」とも言われていますが、現物は確認されておらず、これは単なる作り話のようです。しかし細野氏に白い目を向ける人達が沢山いたことは事実だったようで、新渡戸稲造、早稲田大学教授木村毅らが名前こそ出しませんでしたが明らかに細野氏を非難する内容を寄稿文として雑誌に載せました。
しかしのちに、実はローレンス・ビーズリーは13番救命ボートの担当であり、後に分かったリストから13番ボートには中国人が一人おり、これを日本人と勘違いして書かれたものだ、ということが分かります。ただし、それは事故から85年も経った1997年のことでした。
こんなに時間がかかったのには、当時の記録では10番ボートには「アルメニア人男性と女性しか乗っていなかった」と記録されていたこともあります。当時、細野氏は口髭をはやしていたので、アルメニア人と勘違いされていたようです。やはり大事故であったがゆえに記録も混乱していたのでしょう。細野正文氏の名誉が回復されるまでに、彼の死から実に58年もの歳月が必要だったのです。
細野家の家宝
というわけで、細野家にはタイタニック号の便せんに書かれた書きかけの手紙が今でも残されており、現在は寄託物として横浜の「横浜みなと博物館」に保管されているようです。細野正文氏には4人の男の子がいましたが、四男の細野日出臣氏の息子、つまり正文氏の孫である細野晴臣氏は音楽家となり、ベーシスト兼作曲家として松田聖子に「ガラスの林檎」「天国のキッス」などを提供、さらにイエローマジックオーケストラのリーダーとしてテクノサウンドブームを巻き起こすことにもなります。
その細野晴臣氏が「我が家に伝わる家宝」として正文氏の残した「タイタニック号の便せんに書かれた手紙」を一度だけ、タイタニック号を取り上げたテレビ番組で紹介したことがあります。それが下の写真です。
現在では「タイタニック号のコレクター」という人達が存在し、タイタニック号関係の品物はサザビーズ等のオークションで物凄い値段が付きます。しかも「便せん」は紙のため、劣化が早く沈没船に残っている可能性は全くなく、「現存する唯一の品」であることは間違いありません。
まさに「コレクター垂涎の品」です。正文氏が持って帰ってきた「お土産」は実は大変な品物だった訳です。
もっとも、晴臣氏は「これは家宝だから」ということで手放す気は全くないそうです。多分、今後とも細野家に代々、伝えられていくのでしょう。日本にはそんなものも残されているのです。
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2023/02/16 11:33