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日本初のロボットの父は水戸黄門の父だった
- 2022/12/02
私たちの身の回りの生活は、ロボットに支えられています。工場の製作ロボットや、アイボやペッパーといった身近なロボットのほか、検索エンジンやAI(人工知能)なども一種のロボットです。
今やロボット社会となった日本ですが、日本初のロボットは昭和初期、ひとりの学者の想像力から生まれました。
今やロボット社会となった日本ですが、日本初のロボットは昭和初期、ひとりの学者の想像力から生まれました。
日本初のロボット・学天即
日本初のロボット「学天即」は、1928年(昭和3年)に発表されました。「学天即」という名前は、宇宙や自然の法則から学ぶという意味が込められています。顔は世界中の民族の特徴をあわせてつくられました。装飾も豪華で、葉の冠に肌は金色。肩には鳥が止まっていたそうです。
そのビジュアルは、ロボットというよりもどこか仏像を想像させます。
(実際に展示場では学天即を拝みだす人もいたとか…)
ちなみに、のちの特撮ドラマで活躍する宇宙人「ウルトラマン」のデザインも仏像をモチーフにして作られました。人間はロボットや宇宙人など、「人を超えたもの」を想像する時、神や仏を無意識に想像するのかもしれませんね。
学天即は体内に埋め込まれたゴムチューブの空気圧により、なめらかに動くことができました。それは手に持ったペンで文章を書いたり、目や口を動かしてほほえむ表情をつくるなど、当時としては画期的で複雑な動きが可能でした。
残念ながら学天即は展示先のドイツで行方不明になってしまいましたが、現在、大阪市立科学館で再現された学天即をみることができます。再現された学天即の動画を見ましたが、約100年前のテクノロジーとは思えないほど表情豊かに動いています。
生物学者である西村博士は、「人種差別の超越」と「科学の暴走の危険性」「芸術と科学の融合」という思いを込めて学天即を作り出したそうです。
日本初のロボット博士・西村真琴
人間以外の人工的な生命体に初めてロボットという言葉を使ったのは、科学者でも技術者でもなく、カレル・チャペックというチェコの小説家でした。西村真琴博士も、科学者でも技術者といったロボットの専門分野ではなく、阿寒湖に生息する「マリモ」などを研究する生物学者でした。その経歴もユニークで、植物学者の他にもSF作家、アイヌや中国の孤児の保護活動を行うほか、議員としても活躍しています。
そんなマルチな活躍をした学者が、なぜロボットをつくることになったのでしょうか…?
そこには、ロボットを強制労働機械ではなく、生物のようにとらえた西村博士の独自の思想がありました。
博士は生物学の延長上に「人を超えたもの」や「科学の暴走の危険性」の象徴として学天即を作ったのです。
そのため、学天即ができるのは文字を書くこととほほえむことだけだったそうです。
二代目水戸黄門はロボット博士の息子
そして、西村博士の息子さんが時代劇「水戸黄門」で二代目水戸黄門を演じた西村晃さんでした。『帝都物語』という映画では、父・真琴役を演じて学天即を動かしています。この西村晃さんは悪役から水戸黄門まで、幅広い役柄を演じてきた名優でしたが、まさかご自分の父親役をやることになるとは思わなかったことでしょう。
まとめ
日本初のロボットと水戸黄門に意外なつながりがあることがわかりました。現実でも、アニメや漫画などフィクションでもロボットが活躍する現代ですが、日本初のロボットのテーマは「科学の暴走への警鐘」だったのです。
もしも西村博士が現代のロボット社会を見たら、いったいどう思われるのでしょう…。
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