幕末草莽諸隊より…皇室との絆を誇りに戦った丹波山国隊
- 2023/09/12
幕末、日本が変わろうとしていた時に全国で立ち上がった草莽庶民たち。彼らは慣れない手に武器を取り、自分の信ずるところに従い、勤皇佐幕に分かれて戦いました。丹波山国隊は皇室御料地の誇りを胸に手弁当で天子様のために駆けつけます。
皇室との深い絆
丹波山国郷(京都市右京区京北町)は昔から御杣山御料地でした。平安遷都の時に山国杣として用材を調達するため、官人36人が移り住んだのが始まりとされます。のちに52人増えて88家となり、いずれも朝廷から官位を授かり以来、禁裏御用の荘園となります。 郷の古社山国神社は宝亀年間(770~781)の創建と伝わり、長和5年(1016)、勅願により正一位の位を賜ります。祭祀料として神田と山林が山国郷に与えられ、毎年生け鮎1000匹・塩鮎400匹の献上する習わしでした。
官位や神田の代償として郷からは内裏修理の良材に餅や粽・鮎・若菜・茶など山里の幸、あるいは釣瓶や盥・桶などの木工品を献上する義務を負います。
また、万一の場合は京都御所に駆けつけて警護役を担い、まさかの時には帝の避難場所ともなります。南北朝時代に北朝の光厳上皇が身を隠され、その御在所が現在の桜の名所・常照皇寺です。
官位復活のつもりが巻き込まれた争い
しかし、時代が移るにつれ、郷の様子も変わり、官位拝任の事も廃れてしまいました。これを無念に思い、藤野斎(いつき)を始めとする4人の名主が官位拝任の復活を目指し、金品を手に関係各所へ猛烈に働きかけます。努力が実り、その最後の打ち合わせに京都の葉室大納言邸を訪れたのが、慶応3年(1867)12月8日のことでした。この頃、京都は9日には京都御所で明治天皇より勅令 “王政復古の大号令” が発せられ、10日には徳川慶喜が滞在する二条城に会津・桑名兵が集結しと緊張の只中にありました。
そんな所へやって来たのが山国郷の一行です。彼ら4人はめでたく、従五位下の官位を拝任しますが、この時は山国郷のことばかりで彼らには世の動きなど全く頭にありません。ところが年が開けた正月3日、鳥羽伏見の戦いが始まって幕府軍は敗退。すかさず4日には山陰道鎮撫使・西園寺公望の「勤皇の志ある者は武器を取って集まれ、官軍に参加した村には年貢半納の御沙汰あり」との激文が山国郷にも届きます。
今こそ朝廷のご恩に報いる時
官位を拝命したばかりで朝廷直属御料地の誇りに火がついた4人。さっそく村人に呼びかけ、農兵隊の結成を決めて郷人が集まります。しかし悲しい事に直後に村人は、藤野と水口市之進が率いる64名と、鳥居五兵衛・河原林安左衛門が率いる27名に分かれてしまいます。この2隊は維新の騒動が終わる最後まで合流・和解する事はありませんでした。
藤野・水口組は岩倉具視から因州鳥取藩に付属するよう言われ、隊の名前も “山国隊” を正式に名乗り、鳥取藩の新邸に駐留、フランス式の軍事教練を受けます。隊員の一人は「トレビアン」をフランス語の号令として覚えたとか。
2月13日、山国隊は東征大総督有栖川宮熾仁親王麾下、岩倉具視が率いる東山軍に組み込まれ、京都を出発します。しかし、水口は隊の軍用資金調達のために京都に残りました。
隊の装備品、陣笠から法被・提灯まで全て鳥取藩から借りたものであって、借り賃を払わねばなりません。山国隊はどこからの資金援助も受けずに、すべて自分たちの持ち出しで遠征軍に加わりました。この時に使った多額の金の返済に彼らは後々まで苦しめられます。
いざ合戦
山国隊の初戦は3月6日の甲州勝沼に置ける近藤勇率いる甲陽鎮撫隊との戦闘でした。この戦いで鎮撫隊は散り散りになって逃げ散り、山国隊は藤野が足を痛めますが、戦死者もでずに勝利をおさめます。鳥取藩から借りていた使い物にならないゲベール銃に変わって、鎮撫隊から奪い取ったミニエー銃も手に入り、山国隊の士気は大いに上がります。
新政府軍は東海・東山・北陸の三道から江戸に集結、4月11日に江戸城無血開城を受けて山国隊は尾張藩江戸屋敷に入ります。ここで山国隊は名目上の隊長であった鳥取藩士河田佐久間(さくま)から“魁”の文字の入った陣笠を手渡されます。
陣笠のまわりに赭熊を取りつけたもので、被った格好が河童に似ていたものですから “河童隊” と揶揄されますが、彼らはありがたく頂戴し、以後この陣笠は山国隊のトレードマークになります。
尾張藩邸では射撃の訓練も行われましたが、山国の猟師として鉄砲の扱いに慣れている山国隊士は抜群の技量を見せ、武士たちを圧倒します。
初めての戦死者を出す山国隊
幕府軍の手に落ちた野州宇都宮城救援の戦いは、山国隊の初めての苛烈な戦闘でした。降りしきる雨の中、敵味方の砲弾が飛び交い、山国隊は死者3名・負傷者4名の損害を出します。4月25日、山国隊は江戸へ凱旋する官軍の錦旗警護の役を果たしますが、農民兵であった彼らには無上の栄誉でした。5月15日には上野の山の彰義隊討伐戦に加わり、隊員が崖の上に据えられた彰義隊の大砲によじ登り「官軍山国隊一番乗り」と呼ばわります。鳥取藩も大いに面目を施しました。
23日、小田原への出陣で山国隊は全軍の先鋒を務めます。小田原藩が恭順の意を表したので実際の戦闘はありませんでしたが、次は奥州への出陣が命じられました。
6月16日、薩摩・熊本など1000人の官軍兵と共に軍艦3隻に分乗し常陸平潟(ひらがた)に上陸、直ちに白河城に籠る政府軍救援に取り掛かります。幕軍は官軍の軍艦を見た途端逃げ散りますが、磐城平藩3万石の隠居安藤鶴翁が元幕府老中の矜持を見せて決起、7月13日城に火を放って落城します。
借金に苦しめられる山国隊
戦いも終わり、10月に山国隊が江戸に戻った時には、年号も明治に改まっていました。めでたく京都へ凱旋のはずですが、ここから山国隊の苦労が始まります。鳥取藩のお納戸役から借金の返済を求められたのです。わかっていたことですが、隊員たちには帰京の路銀もない有様、見かねた隊長の河田が間に入り、借金は帰京後に支払う事で話がつき、何とか追加で50両を借り、一人当たり2両1分の帰京の費用に当てます。
明治元年(1868)11月25日、有栖川宮の凱旋部隊に混じって京都に帰還、戦死者4名・病死者3名を出して山国隊の戦いは終わりました。
ただ、彼らの苦境はまだ続きます。わずかな報奨金で莫大な借金が返せるはずもなく、共有山林640町歩を売り払ってもまだ足りませんでした。しかし全て自弁で戦った山国隊の活躍は多くの人に感銘を与え、長く郷土の誇りとされます。現在も毎年10月22日、都大路を練り歩く時代祭りの先頭を切る維新勤王隊は、山国隊をモデルとしています。
おわりに
実質的に隊を支えた藤野はその後戸長・区長・郡長を歴任し、郷里の行政に尽くします。ちなみに、この藤野と京都上七軒の芸妓牧野彌奈(みな)との間に生まれたのが、日本映画の父と呼ばれた牧野省三です。【主な参考文献】
- 伊藤春奈『幕末ハードボイルド』(原書房、2016年)
- 新・歴史群像シリーズ『幕末諸隊録』(学習研究社、2008年)
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